修験道と天理教の病気なおし

  日本では、徳川幕府が「医は仁術なり」と掲げ、医療は儒教的素養を持つ知識人が行うものと定め、仏教の僧侶や神道の神官が病気なおしに関わることを原則禁止しました。例外は、日蓮宗による狐憑きの治療と修験道でした。

 天理教の「人たすけたら我が身たすかる」という病気なおしの教えは、そういう状況下では、画期的に新しかったのでしょう。中山みきの最初の神がかりが、息子の病気なおしのための、修験道の寄加持の祈祷の折であったことは、示唆的です。成長期の天理教が、仏教寺院・神社だけではなく、修験道の山伏にも攻撃されたのは、「病気なおしのライバル」と見られたことと関係しているでしょう。

 天理教と同時期の、日蓮宗系の初期新宗教・本門仏立宗との比較も必要でしょう。