「普通」という<近代の発明>

 正常と異常というのは、はっきりしないものなのです。普通か普通でないかも、あいまいでした。それなのに、どうして、こんなにも私たちは普通にこだわるのでしょうか。
 ところで、普通という言葉は、古語辞典には見当たりません。どうやら最近できた言葉のようです。角川「国語事典」では、定義に次いで普通教育・普通選挙が例示された後、「普通文―明治時代に広く用いられた文語体の文章」とあります。
 なんと、「普通」とは、明治時代が求めた言葉だったのです(石川憲彦「フツーであること」『こども、こころ学−寄り添う人になれるはず−』ジャパンマシニスト社、2005年(初出1994年)、p21)。


*「発達障害」問題を考えるうえで示唆的な意見です。今の大学生と付き合っていると、「努力の終焉」の後にいわば「フツー強迫」が吹き荒れているように感じることがあります。