自殺防止と宗教

 語られるにせよ語られないにせよ、患者の自殺への傾斜が、決定・選択に近づいていると感じられることは、重症の症例・治療者として無理もないと感じられる状況で、少なからず見られる。緊急例としては、別れの電話がかかってきた場合や、外来での面接でこのまま帰すのは危険と思われる場合などがある。そのさい当然わたくしは冷静ではあり得ない。進退窮まった心境のなかで、ほぼ次のような内容を、筋道立てず、くりかえし、患者に訴えかける。
 ①「すべての自殺決定は正常な選択である」と考えていること、②自殺を止めたいという周辺の人びとの思いも自然なものであること、③わたくしがあなたに生きていて欲しいと頼むのは、つきつめて考えると、わたくし自身のためであること、④あなたに生きていて欲しいと思うわたくしの要求の大部分は、私があなたの治療者であることに由来すること、⑤治療者としての部分を引き去ってみると、より小部分ではあるが、人としてわたくしの心があなたに生きていてほしいと頼みたい、ことが見えてくること、⑥このわたくしの小部分は、多くの人が共有しており、人と人をつなぐ絆、であると感じること。
 そのように訴えかけるとき、確かにわたくしは、患者に救いを求めているという自覚がある。そして、「人という字は互いにもたれあって立っている」という言い回しが、最近聞かれなくなって、代わりに「自立」という言葉が頻出するのは、悪貨が良貨を駆逐した例ではないか、と思ったりする(神田橋條治『精神療法面接のコツ』岩崎学術出版社、1990年、pp.200-201)。


*結局、自殺防止のギリギリの局面では、精神科医も宗教に頼らざるをえないのでしょう。