「華やか」男装、「日陰者」の女装 寛容度に差、なぜ

http://digital.asahi.com/articles/TKY201307300194.html より転載
「華やか」男装、「日陰者」の女装 寛容度に差、なぜ


 教育面の定番連載「いま子どもたちは」の今シリーズは「男装/女装」。男装する女子、女装する男子の様子を紹介しています。


 男装は、古くは「男装の麗人」から、現代の男装アイドルの登場や男装女子の増加まで、比較的前向きに受け止められる率が高いようです。これに対し、女装は、なかなか社会で受け入れられず、いまだに「日陰者」の暗さがつきまとってしまいます。その源流を明治大学非常勤講師で性社会史が専門の三橋順子さんに聞いてみました――。
 明治時代まで、庶民は、男装にも女装にも比較的寛容だった。差別はあったかもしれないが、現代のように極端に排除することはなかったと推測される。
 江戸時代までは、武家は男女をきっぱりわけていたが、庶民は違った。明治になって「男は男らしく、女は女らしく」という武家の規範が庶民にまで広がった。さらに男装と女装の間で評価に極端な差がついたのは、昭和以降ではないか。
 1930年代、欧米で男装ブームが起きた。女性がパンツルックをした程度だが、当時は映画の人気でブームが広がり、日本もその影響を受けた。日本で「男装の麗人」という言葉が出てきたのは、このころだ。
 戦前の日本で「男装の麗人」の2大スターは、松竹少女歌劇団の水の江滝子と、「東洋のマタハリ」と言われた川島芳子。この2人の人気で男装のイメージが上がった。
 特に川島が典型だが、女性より男性の方が社会的に地位が高い当時にあって、女が「男勝り」の働きをし、しかも国の役に立つということで「男装は役に立つ」と思われた。
 もちろん川島を嫌う人々もいたが、男性にとっては「(本来は役に立たない)女なのにそこまでして国の役に立とうとする」と好印象をもたれ、女性からは「男社会の中で活躍をするという、自分たちが果たせないことを実現している」と期待された。
 一方で、女装する男性については、役にたたないどころか、女性よりも価値がある男性として生まれながら、男性の役割を放棄する存在と、おとしめられた。
 第2次世界大戦後、男性に対する「男らしくあれ」という締め付けはいったんゆるんだが、まだ男装と同じ程度に価値が上がるところまではいっていないのが現状だ(談)。