父なき子たち

 しかし、ここでいう父親不在の根を今日の父親年齢の男たちのだらしなさに求めるのは単純にすぎよう。われわれはくりかえしみている。平均以上の偉大な「男らしい」父親と従順な息子という組み合わせからも困難はいくらでもおこりうることをみている。それから、一般に今日権威的武断的な治療方法は学童期の子どもに対してならいざしらず、青年期も後半に入った人に対しては、まず負の効果しかないことも、われわれは知っている。とくに高学歴者に対してはそうである。高学歴化・中産階層化が不可避的に権威ー服従軸を弱化しつづけるかぎり、父不在、尊敬の不毛という現代的不毛はつづくであろう。そうであってみれば、明治大正の「父」を今日探し求めることはおよそナンセンスといわなければならない。尊敬、畏怖、帰依といった関係が不毛になるにつれて、儀式はその内実を失う。成人式などはその最たるものであろう(笠原嘉『青年期ー精神病理学からー』中公新書、1977年、p214)。