「疑似仲間」としての血縁ー「上野 VS 内田」論争について

http://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/bcf6850b3a1a3547ddda300aa23e00d7 より転載
上野千鶴子 VS 内田樹週刊ポスト/ベストセラー「おひとりさまの老後」をめぐって


わたしの考えるネットワークはそれとはまったくちがっている。同じく「中間集団が必要」といっても、かつてのような家父長的な大家族や擬似家族的な会社組織は、氏(熊田註;内田樹氏)がどんなにその「再構築」をのぞんだとしても、第一に歴史的に不可能であり、第二に社会的にものぞましくない。それに対して「おひとりさま」がつくりあげてきた(実例はわたしの著書をみてほしい)ネットワークは、個人を尊重した血縁によらない(擬似血縁もめざさない)共助けの支えあいである。氏は主従関係や師弟関係がよほどお好きなようだが、はからずも氏の権威主義的なホンネがあらわれているというべきだろう。・・・(略)・・・・(上野千鶴子


上野千鶴子さんは「個人を尊重した血縁によらない(擬似血縁もめざさない)共助けの支えあい」が望ましいとおっしゃいます。「『血縁』を特権視すべきではない」という点では、上野さんに賛成です。しかし、「共助けの支え合い」が、血縁を全面的に排除する必要まではないでしょう。「疑似血縁」としての仲間がある、と考えるのではなく、逆に「血縁も『疑似仲間』である」と考えればいいと思います。つまり、「血縁であろうがなかろうが、仲間は仲間」と考えればいいのです。