聖母か娼婦か

近代社会では女を過剰なる性的欲望の主体としての「娼婦」と、性的欲望を抑制した主体としての「母」という二つのものに弁別し、女のセクシュアリティを、一方では男にとっての性的欲望充足の空間としての性産業空間と、他方で次世代再生産の空間としての家庭にわりふった。家族における女の性的欲望を監視の下におき、それを逸脱するものに対しては「病理」のレッテルを貼ったのである(河口和也『クイア・スタディーズ』岩波書店、2003年、p.81)。


村上春樹さんに聞かせてあげたいものです。村上さんは、自分がフェミニストに批判されていることを意識しているのでしょうが、繕えば繕うほど女性差別というボロが出る感じです。以下は、amazonにおける『1Q84』第3巻に対する批判的なレビューです。


 これが「村上春樹」というブランド物ではなかったら、こんなに話題になり、売れる本になったか?それが私の正直な感想です。
 みなさん、目を覚ましてください。普通に考えると「青豆」の恋愛に対する思考回路、ほぼストーカーです。私は“アラサー女子”ですが、まったく共感できません。また女性の話し言葉が非常に不自然です。「海辺のカフカ」でも感じたのですが、村上春樹さんは女性を即物的に扱いすぎです。ある意味、登場する女性は非常に従順です。男性の主人公に対するオブジェのようです。女心が描けないのなら描けないまま、「僕」の視線で物語が運ばれていく「羊」シリーズなど初期の方が、普遍的な孤独感をうまく炙り出していて、心に刺さる言葉が沢山あったのに、と残念な気持ちでいっぱいです。
 また「ジュンコシマダ」だの記号のようにしつこくブランド名が出てくるのですが、それによって暗示される背景が全く分かりません。当時大人だった人にしかわからない表現のような気がします。
 読んでいて、全般的にイライラしました。「削るべきところは削る」というセオリーを無視して、ダラダラ書いているとしか思えませんでした。このキャラクターはこんなにしゃべらないだろうというキャラクターまで、やけに饒舌で説明くさいのに、深みも意味もない。
 村上春樹さんは、そろそろ30代前半の人間の視点ではなくて、自分のリアル年齢の「僕」の視点から、現在の小説をかかれてはどうかと思います。たぶん、30代の頃の「僕」を引きづりながら、気づけば60代になっていた現代人の話を書いたらすごく面白いし、読んでみたいと私は思うのですが、いかがでしょうか?