「母方のおじ」再考

 ついでに申しますけれども、今おじさんと申しましたけれども、家族に協力を頼むときに一番話を聞いてくれる人、これはまず母方のおじを探せというのが私なり、私の友人たちの合い言葉なんです。これはどういうことかと申しますと、実際には父方のおじさんという人がいて、母方にはおじさんがいないとか、母方のおじさんでも融通がきかんとか、そういうことはあるかと思うんですけれども、だいたいにおいて父方のおじさんというのは、何とか家(け)という、家(いえ)のことがどうしても頭にあるわけです。どっちかというと建前的な、世間の社会通念をそのまま押しつけるという側に回ることが多いわけです。ところが、母方の兄弟というのは、妹なり姉なりも何とか家に言って苦労しているだろうという思いがあるわけです。ことにその子どもさんが病人になると、特にそういう思いがあるんでしょう、何とかしてあげたいと、それで、声をかけましたら「私どもでできることなら何でも」と言ってくれるのは母方のおじさんが一番なんです(中井久夫中井久夫著作集5ー病者と社会』岩崎学術出版社、1991年、p.175)。

文化人類学では、「人間社会において、婚姻による関係である家族は最も基本的な生活構造であるが、その構造の発生は、ひとつの禁則命令が契機となって起こっている。それは『近親相姦の禁止』である。男性は結婚する際、相手の女性を他の男性から何らかの形で奪取するほかなく、後者の男性はその女性を、娘やきょうだいの形で譲り渡すことになる。この関係構造の『ずれ』を引き起こすのが『近親相姦の禁止』であり、それだからこそ、『母方のおじ』にシンボライズされる関係存在は常に親族構造の中に出現し、親族関係構造の必須の項として機能してゆくのである。」とされていますが、中井久夫さんのような精神科医は、こうした親族関係構造を利用している、と見ることができます。