江戸時代と<個的領域>

 江戸時代には“個人とはこういうもの”っていう基本単位に関する確定作業が欠けているんだからさ、制度の一員としてやっていく“個人”になるんだったら、実際になんでもやってみるしかない。マニュアルなんてないの。
 (中略)
 余分なものを位置づける論理がないからといって、それを野放しにしてただの“贅沢”で終わらせちゃう考え方はもうやめた方がいいと思うね。現代っていうには、贅沢を黙認する寛容にして曖昧な江戸時代であり、と同時に、そのことを「それは個人の自由だ」というセリフで置き換える、近代という第二の予定調和の時代なんだよね。だから、「贅沢として規定されるものが“個人”というものの核だ」っていうんだけどさ(橋本治『江戸にフランス革命を!』青土社、1989年;pp.292-293)。


 どうしてみんな気がつかないのだろ、この世には“個人”というものを認める、“個人”というものが肉体を持って関係を持って現実の中にいるかなりシチメンドクサイものだということを。一方的に語ったつもりになっている“表情”なんて曖昧なものを拾い上げる“主君”なんてものがもういないのだということを!

 バカぢやねへの!!
 (肝腎な話をしてしまった♡)
 これが私の人権宣言である。
 終(同上、p.458)。