女性のホモフォビアー雨宮処凛「ともだち刑」
雨宮処凛さん(1975-)の小説「ともだち刑」(講談社、2005年)を読みました。ネットを検索すると、バレー部を舞台にした「女子中学生のイジメの世界をリアルに描いた小説」と評されています。もしかすると、雨宮さん自身もそう思っているのかもしれません。しかし、私はこの小説は失恋を描いた残酷な百合(女性同性愛)小説だと思います。
中学時代、「わたし」の教祖だった美少女の「あなた」。「あなた」は「わたし」をイジメるようになる。卒業後、「わたし」は「あなた」に「認められる」ために、「あなた」を包丁を握りしめて殺しにいくことが暗示されて小説は終わっています。思春期にある少女たちの同性愛的欲望のもつれを見事に描いた、その点で画期的な小説だと思います。
気が遠くなりそうな感激にも似た衝動。泣きだしてしまいそうな衝動。私はあなたに欲情していた。あなたになってしまいたい。あなたになってしまいたい。どうして私たちは別々の人間なんだろう(p.153)
絵に描いたようなホモセクシュアル・パニックです。この小説では、異性愛中心主義社会において、フロイトが分析したような、人が内なる同性愛的欲望を抑圧するためのあらゆる手管が見事に描かれています。「私はあなた(女性)を愛していない。私が愛しているのは彼だ。」(「わたし」は好きでもない男と行きずりのセックスをしながら、上記の引用部分を自覚する。目的語による否定。)内なる同性愛的欲望を自覚したときに「わたし」が用いようとするゴマカシの手管は、「私はあなたを愛していない。私はあなただ。」これは、フロイトも見落としていた究極のゴマカシの手管、「愛の対象への自己同一化による愛の否定の試み」です。そして「わたし」がたどり着いた結論は、「私はあなたを(死ぬほど)愛してなどいない。私はあなたを(殺したいほど)憎んでいる。」(動詞による否定。)
この小説をどう評価すべきでしょうか?この小説が認められる程度には、日本社会の異性愛中心主義は緩んできた、と見ることができます。逆に、雨宮さんのような鋭敏な感受性の持ち主にすら、内なる同性愛的欲望は抑圧し続けないといけない、と感じさせるほど、依然として日本の異性愛中心主義は強固なものであり続けている、と見ることもできます。