アダルトチルドレンとグノーシス主義ー雨宮処凛の場合

─「みなさんは『私を認めて』と叫んでいますが、私はみなさんが神の子であることを認めています。それ以上何が必要ですか?」(ある宗教団体における講話)

 グノーシス主義(「自己=神/世界=悪」という宗教的世界観)は、永井豪(1945-)のマンガ「デビルマン」(1972-73)を契機に日本の大衆に広く知られるようになりました。「テーマはアダルトチルドレン」という庵野秀明(1960-)監督のアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995-1996)に典型的に見られるように、グノーシス的な発想は、現代では日本の大衆文化全域にもはや広く浸透しています。しかし、「グノーシス的なるもの」は、本当にアダルトチルドレンを「救う」ことができるのでしょうか?
 私は、アルベール・カミュ(1913-1960)の小説「異邦人(よそもの)」(1942)を題材に、この「母の登場しない母モノ」小説が、アダルトチルドレンおよびグノーシス主義と親和性をもつことを論じたことがあります。

熊田一雄「AC・異邦人・ブーバー―『見捨てられ』感覚をめぐって」、『アディクションと家族』vol.18−4、p570-576、日本嗜癖行動学会、2001年

 「プレカリアートのマリア」の異名をもつ作家の雨宮処凛(1975-)は、ヴィジュアル系バンドの追っかけ、リストカットの常習を経て、現在も日本社会が生みだしたファツションであるゴシック・アンド・ロリータを愛好している、濃厚にアダルトチルドレン的な人です。雨宮処凛は、現代日本の大衆文化の中における「グノーシス的なるもの」に救いを求めているように見えます。そんな雨宮さんは、今は「生きることが下手な人間集結!」というスローガンを掲げた「こわれ者の祭典」という一種の自助グループの名誉会長を務めています。

http://koware.moo.jp/

 しかし、HPを見ている限りでは、「こわれ者の祭典」の参加者たちは、アダルトチルドレンの最大特徴である「絶望的なまでの自己承認欲」を、「仲間内で相互承認する」ことによって満たして、「仮の安定」を得ているだけのように思えます。もちろん、自殺するよりはこうした自助グループに参加する方がいいに決まっています。しかし、「目立ちたがり屋」を自認し、「病気自慢」をする(雨宮処凛「すごい生き方」サンクチュアリ出版、2006年)この人たちは本当に「救われた」のでしょうか?まだ「救いを求め始めた」だけなのではないでしょうか?「神」なくしては「救い」は不可能なのではないでしょうか?
「時代のシンボル」でもある雨宮さんの今後の活動に注目したいと思います。