対人障害の治療

(前略)対人恐怖症にしてもそれに近い精神病にしても、大学生年齢になってからの修復工作では困難が大きすぎる。もっと早い時期に、できればそうした対人障害の初発して間もない中学から高校にかけての頃に、一対一的関係の可能な集団的セッティングが用意されるなら、あるいはそこから彼らは自力で自動的に這い上がってくるかもしれないと思うのである(笠原嘉『青年期ー精神病理学からー』中公新書、1977年、pp.32-33)。


*宗教団体には、そういう「一対一的関係の可能な集団的セッティング」を用意しているという面もあると思います。

境界例と投影的同一視

 患者が非常に内面的な人間に見えてしまうことがある。なぜだろうか。フロイトは、自己愛的な人間の魅力について語り、そうした人の周りになんとかしてあげたいと思う人が集まるといっている。境界例は、たしかに自己愛的かもしれないが、それほど内面的な人間ではない。治療者が内面的な人間を高く買うことを察知してそう行動している場合はあるだろう。しかし、内面化という洗練された防衛機制を持ち出せるものが境界例のような行動化や投影的同一視のようなプリミティヴな機制に訴えるはずがなかろう。投影的同一視とは、簡単に言えば、自分が腹を立てると相手が怒っているように認知するということである。誰でも多少はこれを使っていないわけではないが(特に家庭内あるいは政治的に)、これが主となると、これは現実を全く反映しない対人認知であるから、恒久的人間関係を結ぶことが原理的にできない。それは相手のせいでも誰のせいでもない(中井久夫「説き語り「境界例」」『世に棲む患者』ちくま学芸文庫、2011年(初出1984年)、pp.169-170)。


*かつてのオウム真理教の外部社会との対立が連想されます。そういえば、元エリート医師の元幹部、林郁夫氏は、教祖の麻原を自己愛性パーソナリティ障害だと非難していました。

オコエ瑠偉選手を「野性味全開」「本能むき出し」

http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/14/okoe-rui-hochi-report_n_7986326.html


*戦前は「遅れてきた黄色い帝国」であり、戦後は「アメリカの事実上の属国」というねじれた位置にある日本で、こういう「人種/階級/ジェンダー」の描き方、オリエンタリズムがまだ見られるのは嘆かわしいことです。アメリカの新聞が、「イチローがサルのようにグラウンドを走り回った。忍者のようなスライディングを見せた」と報じたら、どう思いますか?