メンズリブ批判

「現代のエスプリ」2007年1月別冊号原稿からの抜粋

<題名>「覇権的男性性からオルタナティヴな男性性へ」
<著者>熊田一雄(愛知学院大学文学部宗教学科助教授)

A.覇権的男性性とは
 覇権的男性性とは、社会学者コンネルが主となって提出した概念で、「ある時代のある社会においてメインとされる男らしさのイメージ」、「男の中の男」のイメージのことである。コンネルは、男性性を複数形において捉え、複数の男性性が時には協働、時には葛藤しながら、総体として男性中心主義を形成するとした。男性中心主義とは、「男性が男性であるというだけで優遇される」社会の仕組みのことである。覇権的男性性の概念は、カテゴリーとしての男女間の権力関係だけでなく、男性集団内部の権力関係を直視しようとする画期的な概念である。ただし、コンネルの理論構成にはまだ曖昧な点が残されており、その後、フーパーが「覇権的男性性は社会の多数派による無意識の協働と同一化によって維持されているが、同時に歴史の中で可変的なものである。」と微修正を加えている。
B.近代日本の「忠臣蔵」幻想―「集団主義」と「意地の系譜」
 近代日本社会の場合、覇権的男性性の大枠は、国民的神話であった「忠臣蔵」物語群によって形づくられてきた。ここでいう「忠臣蔵」幻想とは、一七〇二年に起こった現実の赤穂浪士討ち入り事件のことではなく、事件を題材に日本人が紡ぎ続けてきた神話群の総体のことを指す。近世のそれを継承した近代日本の「忠臣蔵」幻想の総体については、宮澤誠一の労作がある。宮澤は、戦争と政治反乱の時代であった二〇世紀において、そのたびに忠臣蔵物語群が引用されていたことを丹念に実証している。
近代日本の「忠臣蔵」幻想をさらに分析すれば、それは「集団主義」と「意地の系譜」から成り立っているといえる。ここでいう「集団主義」とは、「一度目標を設定したら、それを疑うことなくすべてを犠牲にして団結する」ことであり、「すべてを犠牲にする」というのがポイントである。またここでいう「意地の系譜」とは、「自分自身という存在の正しさ」を証明するために、多大な犠牲を払っても、自分の意志を貫こうとすることであり、「損をしてでも」というのがポイントである。
 「集団主義」は、「和をもって貴しとなす」日本人の和合倫理と密接不可分である。「意地の系譜」は、「子供の駄々に欧米人が驚くほど寛容である」という日本人の「甘え」文化と密接不可分である。戦前(大正期から)に国定教科書によって「忠臣蔵」幻想をたたき込まれていた年長者とは対照的に、近年の日本の若者は、もはや忠臣蔵の粗筋すら知らないことが多い。しかし、「忠臣蔵」幻想が和合倫理や「甘え」文化という日本人の基層文化と密接不可分である以上、たとえ忠臣蔵物語群が忘れられたとしても、広い意味での近代「忠臣蔵」幻想はそう簡単に消滅することはないであろう。近年の日本において、NHKのTV番組プロジェクトXが大変な人気を博していたのは、近代日本の「忠臣蔵」幻想の持続力を示していたものだと考えられる。
C.覇権的男性性と「共謀する」男性性の論客たち
 ウーマン・リブ田中美津は、近代日本のジェンダー秩序を「女は男に媚び、男は社会に媚びる」と喝破した。佐藤忠男の「忠臣蔵―意地の系譜」は、そのうち「男は社会に媚びる」メカニズムを分析した名著である。しかし、その佐藤ですら、女性学の成果は経由していないので、日本人の男性性を論じるときに男性中心主義の尻尾が抜け落ちていないように思われる。佐藤が映画の「男はつらいよ」シリーズを非常に高く評価することに、彼の無意識の男性中心主義がよく現れている。「寅さん」は、ファッション性にはおよそ無縁である。佐藤は、著書「みんなの寅さん」において、渥美清が演じる「寅さん」に「義理人情の世界」に生きながらも、「忠義の原理」(佐藤が忌み嫌うもの)からは無縁で、西欧から輸入された「近代的恋愛」もできる男性像を見ている。しかし、私の考えでは、寅さんは妹・さくらに際限なく甘ったれている。これはフェミニズムがしばしば指摘する近代日本人男性の「マザコン」そのものである。ただ、「男はつらいよ」シリーズでは、「母親が不在である」という設定によって、マザコンがうまくカモフラージュされているのである。また、寅さんの「マドンナ」たちに対する「騎士道的求愛」は、女性解放運動がしばしば指摘する「家庭において女性を従属させる」男性の戦略そのものである。ただ、「男はつらいよ」シリーズでは、「最終的には失恋する」という設定によって「家父長制」がうまくカモフラージュされているのである。カモフラージュされてはいるが、寅さんの正体は、フェミニズムが批判する「近代日本のマザコンおやじ」である。「マドンナ」が、「私最近溜まっているから、寅さん、今晩一発やろう」と誘いかけたら、寅さんは逃げ出すのではないだろうか。
 本誌には、小浜逸郎氏のような、男性性をめぐる保守派の論客も寄稿なさっている。しかし、林道義氏のような男性性についての保守派の論客には、近代日本の「忠臣蔵」幻想と「共謀する」(グルになる)男性性を説いている側面があるのではないか。確かに林氏は、男が子育てに関与することの重要性を説いている。この点は賛成なのだが、「人間のオスはチンパンジーの社会性とゴリラの子育てを併せ持つ」という論法を持ち出す林氏は、「チンパンジーの社会性」の重要性を説くことによって、結局「忠臣蔵」幻想とグルになる男性性を主張してしまっている側面があるのではないか。また、本誌には伊藤公雄氏のような親フェミニズムの論客も寄稿している。伊藤の「『男らしさ』から『自分らしさ』へ」というという主張は、理解できるものである。しかし、その「男らしさ」と「自分らしさ」の内実がはっきりしないことが、彼の主催するメンズリブ運動の重大な限界になっているように思われる。覇権的男性性とは、社会の多数派による無意識の協働と同一化によって維持されているものなので、メンズリブ(男性解放運動)が行っている「個人的なことは政治的なこと」という「意識覚醒運動」だけで解体されるような根の浅い性質のものではなく、「個人的なことは集合的なこと」といういわば「無意識覚醒運動」でも行わなければ解体できないと思われる。
 親フェミニズムを標榜する男性知識人が、覇権的男性性とグルになる男性性から完全には脱却できないでいる一例として、マスメディアで高名な精神科医の言説を取り上げておく。精神科医斎藤学氏は、日本にアメリカからアディクション・アプローチを本格的に導入した人物のひとりであり、一般読者向けの書物を量産して、日本のマスメディアでは大きな影響力をもつ。斉藤学氏は、フェミニズムの主張を理解しようと努めており、その姿勢は評価できる。しかし、斎藤学氏の男性性についての発言を読むと、この人の「男らしさという病」についての理解の底の浅さが窺われる。「どこかで他人の役にたっていないと、特に異性の役にたっていないのが男という存在だと割り切ると「男らしさ」ということがすこしわかる気がする。しかし、そう考えると解せない幾つかのことがある。なぜ「男」は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。社会システム、職能システム、家族システム。ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつのではないか。十五万年の歴史の中で、そのような傾向を強化されてきたのではないかと思うのだ。システムの維持のためには自己犠牲も厭わない、ついでにオマエ(つまり女)もそのようにしろ、というところから男にまつわる諸悪が始まるような気がする。」
 一般に、「男というものは」で始まる「遍在する男性性」の存在を仮定する言説は、ジェンダーに関する社会構築主義ジェンダーは社会や文化によって構築されたものとする理論)の観点からすればすべて間違いであり、単にその発言者自身の男性観を表現しているだけである。上記の文章には、斎藤学氏自身の男性観を表している側面があるのではないか。「ヒトの男という種はシステムの維持に貢献するという固有の傾向をもつ」という発言は、斉藤学氏自身が、私が「男らしさという病?」で批判した、近現代日本の「覇権的男性性」である「忠臣蔵プロジェクトX的男性性」(「存在証明」のために一致団結してすべてを犠牲にする「滅私奉公」の世界)に自己同一化していることを表現している側面があるのではないか。この点は、おそらく斎藤学氏が属する世代の男性によるフェミニズム理解の限界であり、この点では斎藤学氏を非難する気はない。しかし、ドメスティック・ヴァイオレンスに関して、「なぜ『男』は本来守るべき異性を威圧したり暴力で支配したがるのか。おそらく男がその中で暮らすシステムの問題だと思う。」と認識していることに対しては、厳しく非難せざるをえない。「システム」という無定義概念にドメスティック・ヴァイオレンスの「責任」をすべて押しつけて、加害者男性を免責している発言だからである。極端な言い方をすれば、「妻子に暴力を振るうボクちゃんは悪くない、みんな世の中が悪いんだ」と宣言しているようなものではないか。こうした問題は、林道義氏や斎藤学氏の個人的な資質の問題というよりも、彼らが属する日本の心理療法の業界全体が強固なジェンダー保守の体質を維持していることからくる構造的な問題なのではないだろうか。