ひきこもりと天理教

http://www.nhk.or.jp/fnet/hikikomori/experiences/experiences_03.html 「NHK福祉ネットワーク ひきこもり情報」より転載
(3) 2日しか行かなかった高校、ひきこもり、全寮制の学校からの脱走・・・・そんな僕に自信をくれた3ヶ月
東京都 大学生Kさん (22才)


 僕は以前、1年間ほどひきこもっていた。ひきこもってしまったのは高1の時だ。ぼくのひきこもりは精神的にとても辛く厳しいものだった。常にその頃は外に出たいと思っていたけれども、出ることができなかったのだ。
 僕は今年の春に定時制高校を4年で卒業し、現在大学生をやっている。しかしその前に学校を二回、退学してしまったから、大学のクラスメートより三年も遅れている。今考えても、どうして辞めてしまったのだろうと後悔している。本当に辛い過去だ。それを忘れることは生きている間、多分ないであろう。僕だけ苦しむのはまだしも、親や姉にも迷惑をかけてしまった。本当に情けなく、くやしいかぎりである。
 僕が学校をなぜ辞めてしまったのか。率直にいうと自分の精神的な弱さにあると思う。子供の頃から、ある相手に対して全く自分の意見がいえなかった。このような人は、世の中にもいっぱいいるといわれるかもしれない。でも、僕の場合は特に他人のささいな一言をものすごく気にしてしまい、それ以外何も考えられなってしまう。最終的にパニックにおちいり、どうしたらいいかわからなくなる。その時の気分は絶望感でいっぱいである。簡単にいえば異常な神経質タイプと推測できる。
 小学校時代は、けっこうたくさんの友達に恵まれ、楽しく過ごせたと思う。でも、この頃から僕はすでに臆病で自信が全くなかった。僕も友達をつくって外で思いっきり遊びたいと心の中では思っていたが、口ではなかなか「遊ぼうよ」と言い出せないのである。断られたらどうしようとか、自分のことをはたして友達と認めているかと不安になるからだ。だから、たいてい友達から「一緒に遊ぼうよ」の言葉を待つだけであった。僕はいつも友達をつくろう、友達と遊ぼうと思っていた。孤独がこわくて、一人じゃ不安でしょうがなかったのだ。この状態になると嫌われるのがこわくて、無理にあわせようとしてしまい、友達の意見にたいしてNoと考えていてもYesと答え、もう全く自分の意見がなくなるのである。
 僕の特技といえば唯一、走ることであった。今は一般人並だが、当時は学年で一、二を争うほど俊足だった。僕のとりえは足が速いことしかなかったが、それがあるからめげずにやっていくことができ、小学校はほとんど休むことなく無事に卒業できた。
 中学校はマンモス校で、一学年で九クラスあった。小学校のとなりにあったため、僕と同じ小学校の人はほとんどこの中学校に入り、知っている顔がいっぱいあって通いやすく思った。しかし、周囲に足が僕より速いやつが大勢いて、はじめはものすごくショックをうけ、ガックリした。得意なものがなくなってしまい、心の支えがなくなってしまったのである。時がたつにつれ、だんだん心の落ち着きを取り戻したが…。中学では友達はあまりできなかったが無事卒業できた。
 県立高校に入学した。そこは自宅から近くて通学しやすかった。でも、たった二日で行かなくなった。原因は、自分の心の問題でもあるし、クラスに知っている人がほとんどいなかったということもある。その時は精神的に不安定で、何も手につかない状態だった。それからの僕は何もすることがなくなって、一年間ずっと家にひきこもってしまった。本当になにもない一年間で、毎日退屈で、ゲームばかりしていた。学校に入学した意味がなく、むしょうに自分が情けなく自己嫌悪した。
 僕に転機がおとずれたのは、学校を退学した翌年である。親戚にあたる人で教会長をやっている人物と初めて会った。その人が寮制の学校を紹介してくれたのだ。今度こそ頑張ろうと思ったが長続きせず、僕はまた二日でやめた。その学校は地方にあったため、寮から脱走したのである。僕は、パニックになった。絶対に死のうと思った。けれど、そんなことは到底できず、また僕の目の前は暗闇に閉ざされた。
 学校をやめて一ヶ月たったころ、教会長から修養科というところに入らないかという電話があった。あの頃の僕はというと、無気力で何もやりたくなくて、すべての物事にたいして否定的に考えてしまっていた。修養科といったら早寝早起きの規則正しい生活をしなくてはならないし、苦手な共同生活をしないといけないから、まず絶対無理だと思ってしまったのである。何とかしてそれから逃げられないかといろいろ考えた。でも、親がそれを許さないと言ってきた。両親、いや母親にものすごく追い立てられていたので修養科に行かないなんて許されなかった。最初、僕はそれでも絶対行くもんかと抵抗した。時には暴力を振るってしまったことも正直ある。母親は暴力には動じなかった。僕はそんな母親を見て、自分にたいして罪悪を感じた。自分はなんて情けないのだろうと反省した。そういうこともあって、本当はどうしても行きたくなかったが、僕が折れた感じになったのである。
 僕が入ったとき、修養科では約20人が共同生活をしていた。部屋割は、男と女で分けてあり、僕の部屋は全員で6人だった。朝は5時に起き、夜は9時30分に消灯するのだが、最初は5時なんて早過ぎて眠くて眠くてしかたなかった。まさに規則正しい集団生活だったので、最初はなかなか慣れなかった。しかし、部屋のみんながとても親切で、そんな時「眠いけど頑張ろう」といってくれ、少し励みになった。僕は消極的で自分から人に話しかけない性質だったけど、何か困っているといろいろと進んで教えてくれ、いろいろサポートしてくれた。
 当時僕は17歳で自分が一番年下だった。周りの人はみんな成人でしかも定年すぎのおじさんが二人くらいいて、かなり歳の差のギャップがあった。でも、むしろそのほうが良かったのではないかと思う。なぜかというと同年代より年上の人のほうが話しやすいし、付き合いやすいと思っていたからだ。本来ならそれは逆なのかもしれないけど、僕の場合はそうだった。周りの人が親切な人ばかりだったので、いろいろな面で助けていただいた。本当に部屋のみなさんにはお世話になり、感謝でいっぱいである。修養科三ヶ月を通わせてもらえたのも、決して自分の力だけではなく、同期生の心強い支えがあったおかげである。
 そして、やっとの思いで修養科三ヶ月間を終え、ようやく実家に戻った僕は、以前と違って達成感と自信にみちあふれ、意欲満々だった。初めてバイトを始めたが、長続きはしなかった。でも偶然、そのバイト先で都立定時制高校に通っている人と知り合うことができた。教えてもらった定時制高校は、自宅から自転車で十分あまりのところに位置していた。その人にすすめられたというのもあるし、自分でも高校は一度中退してしまったが、また通ったほうがいいと思っていた。親も高校だけは出たほうがいいという意見であった。それで定時に通うことを決意したのである。
 定時制高校も、卒業しないつもりで入学したわけではないが、無事卒業できるなんてちっとも思っていなかった。しかし何とか4年で卒業し、大学受験も無事クリアして、現在に至っている。僕はすごく遠回りしていた。でも、僕にとっては、むしろこのひきこもりという経験によって、自分がひとまわり成長できたと思う。僕の心にはまだ不安な気持ちがいっぱいあるが、常に前を向いてめげずに、そして向上心をもって頑張っていこうと思う。
 最後に言いたいのは、引きこもりの人は「劇的には変われない」ということである。実際、僕は運がいいのか引きこもりから短期で抜け出せたが、徐々に自分は変わっていっていたと思う。しかも、眼では到底わからないほど、ゆっくりでスロースピードで。それは、本人も見分けがつかないほどだと思う。僕の場合は着実に少しづつ変わっていったのだ。たった今ひきこもっている人にいいたいのは、神経がものすごくすりへるほど自分のことを見つめなおすだけではなく、もっと開放的になって自分の好きなことや趣味をたのしんで時には気休めをして欲しい。自分を責めつづけないよう気をまぎらすことも必要だと思う。自尊心を大切にして、日常生活を過ごして欲しいと思う。
 それと、引きこもり生活で重要なことは体を鍛えることだと思う。引きこもり生活が長期化してしまうと、その分歩く距離が激減してしまい、体力が無くなる。たとえば、腰痛になったり、長時間立ちつづけることが困難になってしまい、ただでさえ、精神的に弱っているのに体力が落ちてしまうと行動の範囲が狭くなってしまう。そうなると意欲ややる気がめっきり減ってしまうと思う。だから、体力が落ちないように簡単な腹筋や背筋や腕立て伏せ等をしたほうが賢明だと思う。自分がいつか家を出られることを信じつつ。


天理教の修養科(修行コース)に参加したことをきっかけとしてひきこもりを脱した事例です。この人の場合は、修養科での人間関係が、児童精神科医高岡健さんがその重要性を強調する、タテの命令関係でもヨコの競争関係でもない「斜めの関係」を提供したのでしょう。「父なき時代」ならぬ「オジオバなき時代」である現代日本において、宗教団体は、タテの命令関係でもヨコの競争関係でもない「斜めの関係」(笠原嘉=高岡健)を提供できる貴重な集団として、もっと自信をもっていいと思います。