「真正天皇」の話
なだ・いなだ『神、この人間的なるもの』(岩波新書、2002年、pp.166-169)より転載
*ぼく・B(著者・精神科医)とT(同僚の精神科医)が、さる国立病院(かつての任地)を訪ねたときの会話。
患者「真正天皇」は、二人が赴任するずっと以前から入院していた。かれは、記録によると、二重橋から中に入ろうとしてつかまって、皇宮警察から送られてきた。
B 「あのころは、あちこちに自称天皇がたくさんいたな」。
T 「どの病院にもいた。ここの病院にも三人いた」「いつまでたっても、かれから天皇だという妄想が取れない。それでずっと閉じ込められていたかれに、おれは病棟の外に出して、清掃の仕事を任せることにした。それをかれに提案したときだよ。<天皇になにをさせるつもりか>と怒り出さないか。おれは心配だった」。
T 「でも、思い切っていってみると、実ににこやかに引き受けてくれた。<みんなの嫌がる仕事、便所掃除でも、何でもいいよ、わしがやってやるから>とね。しかも、その日から、ほんとうによくやってくれた」。
T 「それである日、おれは<あんたはほんとうに天皇なのか>と聞いた」。
ぼくはかれのことはよく覚えていた。帽子というのは、赤い帯の入った、星の徽章の軍帽だった。それをかぶり、汗をだらだらたらしながら、真夏の陽の下を、ごみの山と積まれたリヤカーを、焼却炉まで引っ張っていく姿が浮んだ。
B 「すると、なんと答えた?」。
T 「<わしは、ほんとうの天皇だ。間違いないよ>だと。そこで、<こんな仕事をほんとうの天皇だったらやるかな。そもそも今宮城の中にいるお方はだれなんだ>と、少々挑発的にいった」。
T 「するとかれは<あれは偽者。わしだけが知っている秘密じゃよ。終戦の日、わしが身代わりになってくれと頼んで、置いてきたのだから>。まじめな顔でそういうのだ。話が面白くなってきたんで、おれは聞いた。<ではあんたは、なぜ宮城から抜け出したのか>とね」。
ぼくは早く返事が聞きたくなって、かれを急かした。
T 「かれの返事か?<わしは今度の戦争で、天皇として何百万の国民を死なせた。国民から、何百万の夫を、息子を、父を奪った。何百万の家族の家を焼かせた。そのわしが、のうのうと宮城の中で暮らしていられるか。迫害と恥辱と困窮とが待ち受けているのは承知の上だ。でも、なんでも耐えようとこころに決めて、あえて出てきたのだ。少しでも国民に対する罪滅ぼしになればいいと思っている>だと」。
ぼくは一瞬息を止めた。「そういうことだったのか」とぼくはうなって、首を横に振った。
T 「おれはからかった自分が、恥ずかしくなったよ。その患者を治療し、妄想をなくそうと努めていたときは、自分が善をなしていると疑わなかった。だが、真正天皇の場合はどうか。かれの妄想は社会にとって、危険だろうか。それにかれの妄想を治すことにどういう意味がある」。
*深く考えさせられる逸話です。