「聴く」ことと「待つ」ことー待ち続ける聴き方ー

 阪神・淡路大震災の時に僕が分かったのは、人が苦しい話や悲しい話を自分で語り切るのが大事だということです。悲しみや苦しみの渦中にいる時には、物事や気持ちを整理できずそこに浸っている。語るためには、整理しなければなりません。語ることで、悲しみを自分から引きはがして対象化し、客観視できるようになる。だから自ら語り切らないと意味がないのです。
 そのような語りはどうしても沈黙が挟まって断片的になる。聴く側はすごくしんどくなって途中で遮って「頑張ろうよ」と励ましたり、「こういうことを言いたいんでしょう」と言葉を迎えに行ったリしてしまう。その人を慮(おもんばか)ってのことだけれど、最悪の聴き方なのです。「分かってくれてありがとう」と感謝されても、自発的に最後まで語ったわけではないから、時間がすぎると元の木阿弥(もくあみ)になってしまいます。
 語り切るまでじっと待ち続ける聴き方が本当のケアだということを僕はいろいろな例で体験しました(鷲田清一「大学人、学者よ 産学連携を反省し市民の信頼を取り戻そう」『サンデー毎日』2011年5月29日号、p116)。


*「聴きだすけ」には、「語り切る」まで「待ち続ける」という姿勢が必要なようです。