資本主義の「鉄の檻」は脱出可能

 牢獄とでも、彼は折り合いをつけたことだろう。囚人として終わるということ―これもひとつの人生の目標かもしれない。けれどもそれは格子の檻だった。無頓着に、横柄に、我がもの顔に、格子を通して世間の喧噪が出はいりした。囚人はもともと自由だった。なににでも参加できたし、外の出来事で彼の見逃すものはなかった。檻から立ち去ることだってできただろう。格子の鉄棒は一メートル間隔で立っていたんだから。囚われてさえ、彼はいなかったのだ(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p.204)。


フランツ・カフカ(1883-1924)は、近代資本主義の帰結としての「鉄の檻」を論じたマックス・ウェーバー(1864-1920)の「プロテスタンティズムと資本主義の精神」(初出1904年)を、おそらく読んでいたでしょう。おそらく、このアフォリズムは、ウェーバーの悲観的な議論に対するカフカの返答でしょう。