太宰治の小説『待つ』をめぐって

ー「待つ」(昭和十七・六)には、そうした微妙な自己放棄のありようを見いだすことができる。従来は、<待つ>対象を詮索することに議論の中心があったが、いまはその姿勢そのものへと視線を移してみたいのである(安藤宏(編著)「展望 太宰治」ぎょうせい、2009年、p.75)。
ーところが太宰の主人公は、特定のだれかに見つめられたくはないと言う。みずからの存在について、だれかの承認を得るということが、ふつうは、ひとが「わたし」でいられる最終的な証拠となるはずなのに、そのことじたいを彼女は拒絶している。とすれば、だれかに憶えておいておいてほしいこの「わたし」、だれかに見掛けてほしいこの「わたし」とはいったいだれなのか(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、p.37)。
ー他の点ではすべて健康で可愛らしく感情も豊かでありながら、しかし「僕(わたし) I」と言うことを学びそこねた子どもがいる。そうした子どもたちと一緒にいると、「僕(わたし)」という共通の宝物がいかに貴重であるか、それが成立するためにはいかに母親的な認識によって肯定される必要があるか、よくわかるはずである。すべての宗教の基本的課題のひとつは<この最初の関係の再承認>である(E・H・エリクソン「青年ルター1」みすず書房、2002年(原文1958年)、p.182)。