「和の身体」を強制していいのか?

 中央教育審議会が、日本の「歴史と文化を尊重する」という観点から、中学校教育の体育において「武道」を男女ともに必修とし、2011年から施行すると発表しました。私は、これが旧左翼のように「軍国主義の復活につながりかねない」とは思いません。日本の武道は<近代の発明>なのですが、だからといって「日本の歴史と文化にそぐわない」という理由で反対するつもりもありません。武道を学びたい子供たちはたくさんいるでしょう。
 私は、「世界の多文化主義の潮流にそぐわない」という理由で武道の必修化に反対し、「選択必修」に留めるべきだと考えます。倫理学者の相良亨が論じるように、中世以降の日本人の「道」の思想は、独特のニュアンスをもっています(相良亨「相良亨著作集5日本人論」ぺりかん社、1992年)。1.天地自然には「おのずから」なる型が存在する、2.目的ではなく、たどりゆく過程に意味がある、3.究極的な境地は、普遍的なものである、というものです。日本人の「道」の思想は、「心身を練り上げていく」という意味での日本的な「修行」のシステムなのです。
 しかし、日本は多民族社会であり、今後はますますその様相を強めていくことが予想されます。例えば、在日朝鮮人に日本的な「道」の思想を強制することは、「思想・心情の自由」に反します。日本的な「道」の思想を身につけていない、モンゴル人横綱朝青龍は、自分が「相撲道にそぐわない」「横綱としての品格にかける」と叩かれることの理由すら理解できていないでしょう。中教審の座長・山崎正和氏は、「柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学」(中公文庫、1987年)において、「消費とは、過程を楽しむ営みである」と論じています。これは、消費文化を日本的な「道」の思想によって制御しようと提案しているのです。
 しかし、「和の身体」を少数民族に強制することは、世界的な多文化主義の潮流に反すると考えます。よって、武道は「選択必修」に留めるべきです。そうしなければ、朝青龍バッシングの小型版のようなイジメが、教育現場で頻発することになるでしょう。