カルテとしての「新世紀エヴァンゲリオン」

 先に「ゴスロリ少女とグノーシス主義」という文章をアップしておきましたが、アダルトチルドレングノーシス主義というテーマは、現在の先進国の大衆文化、特にキリスト教の伝統をもたない日本の大衆文化においては、大きな問題だと思います。「テーマはアダルトチルドレン」というアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」も、大量にグノーシスの象徴を引用していおり、「自己(=主人公の碇シンジ)=神/世界=悪」という世界観に基づき、碇シンジは、「超越者(キリスト教なら神)の力によって自分を変える」のではなく、「自分に合わせて環境(=世界)を変える」ことによって問題解決を図り、映画版では「世界の再創造」を試み、結局挫折していました。
 私は、古代ローマ以来、キリスト教社会の異端であるグノーシス主義は、「霊智(=グノーシス)に目覚めた人間だけが救われる」という霊的エリート主義のために、基本的に「ヒネたインテリの宗教」だと思っています。現代日本の物質的な豊かさと平均的教育水準の高さは、若い世代に大量の「ヒネたインテリ」を生み、キリスト教の伝統をもたないがために、それがグノーシス主義に簡単に惹かれるのでしょう。ゴシック・アンド・ロリータもヴィジュアル系バンドも、やはりキリスト教的伝統をもたない世俗社会である日本が生んだ文化です。
 「新世紀エヴァンゲリオン」は、アニメ監督・富野由悠季が指摘するように、監督である庵野秀明の「作者のカルテ」なのでしょう。碇シンジ、甘ったれるのはいいかげんにしろ。女性(=綾波レイ、シンジの死んだ母のクローン)に母性を求めるのはやめろ。超越者を「素直に」信じて、「自分が変わる」(=甘えを超克する)ことによって問題を解決しろ。私は、「新世紀エヴァンゲリオン」は、こういう感受性はよく理解できるだけに、近親憎悪的に嫌いです。おそらく、「新世紀エヴァンゲリオン」のブームは一過性のものでしょうが。