ニヒリズムから『宮本武蔵』へ

 しかしそれは、一面では、(熊田註:中山)介山が国家への共生共死の観念をついに脱却できなかったからではないだろうか。戦前でも、知識人はもっとコスモポリタンでありえた。たといみずから思うほどに国家から自由でなかったにせよ、かれらは、西欧のなにものかに仮託した精神空間をもつことができた。だが民衆はといえば、生活者であるかれらはそれだけ国家にとらわれざるをえず、いかなる特権とも無縁であっただけに、国家の圧力をもろにうけざるをえなかった。そればかりではなく、国家はある意味での幻想上の救済者であった。のがれる余地はなく、またのがれるだけの贅沢も許されなかった。ひとり大衆文学のみならず、民衆宗教といいい、青年団といい、ついに国家へとたちもどらざるをえなかったのは、民衆にとって国家と言う存在が、きってもきれない装置となっていたからである。絶望が生み出す強烈な国家信奉の姿勢、その具現なり残滓なりを、私たちは介山においてみいだす。このリンクが、いまは完全にきれているかものかどうか、この問いのまえに私には楽観と恐怖が交錯する(鹿野政直大正デモクラシーの底流−‘土俗’的精神への回帰−』NHKブックス、1973年、p.256)。


*戦前の大衆文学『大菩薩峠』のニヒリズムーこうしたニヒリズムからの脱却を目指して『吉川武蔵』は書かれました。