<武蔵的人格美学>の発見と変容(2)

 私は第一部で武蔵は、眼の前に何か困難な状況が横たわり、それに向って、大衆が突き進まなければならない時、読まれ、或いは、読み変えられてきた、と書いた。その時とは、戦中、戦後、そして今である。武蔵はその三つの時期において時代の精神の象徴と成り得たのである。武蔵が、唯一、時代の象徴とならなかった時代はいつか、といえば、それは高度経済成長期からバブル全盛期である、ではその時期、時代の象徴となり得た人物は誰か。それは、坂本龍馬であり、織田信長であった。そして、この二人と武蔵の違いを記せば、それは一目瞭然ー龍馬と信長は組織のリーダー足り得るが、武蔵はなり得ない、ということであろう。
(中略)
 そして、今、その管理社会ももはや遠く、バブル崩壊後の草木も生えぬ有様の中、既成の価値観が崩壊し、暗中模索で歩を進めねばならぬ時代に、剣一筋で己の人生を切り開く武蔵の生き方が「うらやましい」、つまりは、一つの希望として復活してくるのは、決して不思議ではあるまい。今、求められているのは脆弱さを管理してくれる組織ではない。あくまでも強靱な<個>だ。武蔵は、国家や組織に信が置けぬ時、個は個としてあるということを強烈に問うキャラクターであり、武蔵が『バガボンド』=漂泊者として再生してくる意味もここにあるのだ(縄田一男『「宮本武蔵」とは何か』角川ソフィア文庫、2010年(初出2002年)、pp.382-384)。