宗教者が最大の薬

(前略)私も学生時代がちょうど抗生物質が入ってきたころですから、抗生物質以前のドクターというのはよくあれであんなに尊敬されてちゃんと信用があったのはおかしいなと思っていたのですがやはりそこはその理由があったわけですね。
 幾つかの理由があると思うんで好かれども、一つはやはり肺炎一人治したら名医だと言われたそうですけれども、とにかく医者は患者のそばにいてくれたわけです。往診して一緒に徹夜してカラシを塗れとか何とか言ったわけです。あれで肺の炎症を外におびき出すということがどれだけ科学的根拠があるかどうかわかりませんがとにかく一晩ついていてくれた、それは非常に病人には他にかえがたい一つの処方だったと思います。やはり病気という苦しい過程、特に患者の孤独なところをとにかく医者がそばにいてくれるということ、医者というのは最大の薬のひとつだということ、まず医者を処方しなければならないということを私のクラブの先輩が言われたんですけれどもそのとおりだと思います。
 それからもう一つは私の友人で岡山の方で代々医者をやっておられる方ですが、何代か代々コレラで亡くなっておられるんです。医者は流行の時にも逃げられなかったわけです。最後まで踏みとどまってくれるということのために尊敬されたのではないでしょうか、そういうふうに常識として医者もそう思っているし、期待されていたわけです。
 これからも医者は逃げ出すわけにはいかんだろうと思いますが、余りそういうものがなくなってきたものですから(エイズの問題になってなかった時期ー注記)医者がいろいろ批判される面もあるわけで、反対にこういうことがあるんですね(同上、pp.196-197)。


*西欧近代医学の「進歩」とは、要するに病原菌と「抗生物質」の発見でした(必ず耐性菌が出てくるので、それもイタチごっこですが)。天理教初期の布教者の伝記を読むと、彼ら/彼女らは、病人のそばにいてくれて、逃げない、ということで関係者に一目置かれていたことがわかります。
 抗生物質では「治らない」病気ばかりが残ってしまい、同時に「医療崩壊」が言われる現代日本においては、1.病人が孤独なところをとにかくそばにいてくれる、2.我が身の危険を顧みず、病人から逃げない、という前近代の医者の役割は、むしろ宗教者が担うべきではないでしょうか?