人間失格?男性失格?

リチャード・B・ガートナー著「少年への性的虐待」(作品社、2005年)の「あとがき」で、翻訳者の宮地尚子さんが、太宰治(1909-1948)の文学を、太宰が幼少年期に受け続けた性的虐待によるトラウマとの関連で読み解く必要性を主張なさっています。私も賛成です。太宰は、性現象において「主体であることは名誉、客体であることは恥」という近代的な男性性の規範を内面化しており、幼少年期に性的虐待の被害を受け続けたために、「人間失格」ならぬ「男性失格」という感情に生涯苦しめられたのでしょう。私が太宰の「人間失格」を読んで不思議に感じたのは、薬物中毒から一時的に立ち直っていた主人公が、内縁の妻が知り合いの男性にレイプされて、再び薬物中毒の世界に沈んでいく、というくだりで、「なぜ怒ってこの男性を告訴しないのだろうか?」と思ったものです。今思えば、太宰は「妻を他の男に寝取られるのは恥」という近代日本の男性性の規範を内面化しており、男性を警察に引き渡し「恥を上塗りする」ことなど考えられない人だったのではないでしょうか。
 太宰の「走れメロス」(1940年)は、今でも国語の教科書によく掲載されている日本文学のキャノンですが、ジェンダー研究の観点からすれば、明らかに、「生命よりも尊い男同士の絆」を称揚する、「男性の兵士化とその生還」(金子奨)を描いた軍国主義的な小説です。「走れメロス」を書くような小説家だったにもかかわらず、ではなく、逆に「走れメロス」を書くような作家だったからこそ、性的虐待のために「男性失格」の感情に苛まれ、「恥の多い生涯を送ってきました」という「人間失格」(1948年)を書いて心中自殺するはめになったのでしょう。男性学の観点からすれば、一見対照的な「走れメロス」と「人間失格」は、「覇権的男性性」という同じコインの裏表です。太宰の心の中のメロスが、太宰を心中自殺に追いやったのだと思います。

金子奨さんの「走れメロス」論
http://hs-manabi.epoch-net.ne.jp/archives/2006/04/post_19.html