司馬遼太郎とヤクザ映画

 評論家の加藤周一が、団塊の世代司馬遼太郎の小説の人気が抜群に高いことについて、次のような分析を加えています。

 何十万の読者に訴えるためには、小説の根底にある価値観が、大衆のそれと一致するか、少なくとも一致しているかのような印象を大衆に与えなければならない。中里介山大仏次郎吉川英治は、それぞれの時代に、その条件をみたしていた。経済的膨張の時代に、その条件をみたしたのは、司馬遼太郎(1923〜96)である。司馬の主人公は、もはや「剣豪」ではなく、知的英雄であり、もはや架空の役者ではなくて、実在の人物に近く、幕末や維新や日露戦争の、綿密に考証された歴史的状況の中で動いている。その小説の英雄=主人公は、私生活においては型破りで、仕事においては的確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である。管理社会のなかで型にはめられた「モーレツ社員」の分裂した夢―型からの脱出と型のなかでの成功の願望は、鮮やかにもここの反映していた。しかも読者は、その小説を通じて「歴史」を知る、あるいは少なくとも波瀾万丈の小説を楽しみながら「歴史」を学ぶと信じることができるのである(加藤周一「日本文学史序説・下」ちくま学芸文庫、1999年、p526-527)。

 それでは、団塊の世代が一方でヤクザ映画を愛好することは、どう説明すればいいのでしょうか?私は、団塊の世代のヤクザ映画好きは、「剣豪」ではなく官僚化された「サムライ」に自己同一化した「モーレツ社員」の「戦士」としての心理的コンプレックスの代償行為だったと思います。

 自分たちはまぎれもない武士なのに、町や村の荒くれ男たちと比べると男(戦士)として明らかに劣 っ ている。身体的な頑丈さにおいて、それにもまして命知らずな闘争精神において―(氏家幹人「サムライとヤクザ」ちくま新書2007年、p250)。

 「型からの脱出と型のなかでの成功の願望」を抱えた「モーレツ社員」は、「戦士」としての心理的コンプレックスを、ヤクザ映画を見ることで代償していたのでしょう。その行為は、「戦士」としての心理的コンプレックスからきているという点で、三島由紀夫のボディー・ビルと根を同じくしているものでしょう。