下痢の西郷隆盛

http://digital.asahi.com/articles/TKY201312010264.html?iref=comkiji_redirect&ref=mail_1206_03y&prm_dlpo=freemail_ad01&DAL=zmS.689LcS.r&DCT=1 より転載
(文化の扉 歴史編)ストレス病だった? 西郷隆盛



 江戸城無血開城させ、明治維新最大の立役者といわれた西郷隆盛。「清濁あわせのむ」と評されたその実像は、好き嫌いが激しく、ストレスと体調不良に悩む多情多感な人物だった。


 ■豪放な親分の印象/好き嫌い多く繊細


 西郷隆盛は1828年、鹿児島城下の加治屋町で生まれた。藩主・島津斉彬(なりあきら)に見いだされ、長州藩を京から追い落とした禁門の変などで活躍。後にはその長州藩薩長盟約を結んで政局を動かし、ついで勝海舟と会談して江戸城無血開城させるなど、維新を実現するうえで最大の立役者だったとされる。
 その性格は「少しく叩(たた)けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」(坂本龍馬の評)とされるように、スケールが大きく、豪放磊落(ごうほうらいらく)で細かいことにはこだわらない、修養を積んだ人格の持ち主と考えられてきた。


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 だが、本当の西郷は、人の好き嫌いが激しい、緻密(ちみつ)で怜悧(れいり)な人物だったらしい。同時代の記録には「己(おの)レニ異論アル者ニ交ル者少ナク、一タヒ憎悪スル時ハ(略)容慮ナク」とある。
 大阪経済大学教授の家近良樹さん(明治維新史)は「特に若い時には職務に忠実なあまり、血気にはやり同僚を糾弾することもあった。多情多感な人物だったがゆえに、敵を憎むことも激しかったのだろう」と話す。
 一方で、西郷は周囲に気を配り、相手を心から気遣うという一面もあわせ持っていた。このため、戊辰戦争以前から、ストレスに起因すると思われる下痢などに悩まされていたようだ。
 斉彬の後継ぎが亡くなった時には、50回ほどもトイレに駆け込んだとの記録が残る。征韓論をめぐる論議の前後に太政大臣三条実美(さねとみ)と会談しようとした際は「数十度の瀉(くだ)し方にて甚(はなはだ)以テ疲労」し、結局、会うことができなかった。腹痛と下痢を繰り返すことから、過敏性腸症候群などであった可能性もある。
 西郷は当時40代後半だったが、その頃の40はもはや老年で、大久保利通木戸孝允も体調不良に苦しんでいた。「ストレスと老化に起因する体調不良で、征韓論を唱えた頃の西郷は冷静な判断が難しくなっていたのではないか」と家近さん。


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 では、西郷のストレスの源はいったい何だったのだろう。
 家近さんは「最たるものは斉彬の後を継いだ藩主・忠義の父で、藩最大の実力者となった島津久光とその側近」とみる。
 維新後、鹿児島では戊辰戦争に従軍した中下層士族の優遇策に久光が反発を強める。加えて西郷が廃藩置県に同意したことで久光と近臣から憎まれ、詰問状まで出された。「でも、西郷は旧主との対決を避けてさらに追いつめられた。その結果、著しく心身のバランスを欠くことになったと考えられます」
 生前に一切写真を撮らせなかったため、私たちが知る西郷の肖像(キヨッソーネ画)は、実は、弟の従道といとこの大山巌の特徴をつぎはぎした想像画でしかない。だが、地元・鹿児島には「西郷の末弟・小兵衛の夫人が生き写しと激賞した」(高柳毅・西郷南洲顕彰館館長)という、黒いつぶらな瞳が印象的な、肥後直熊の肖像画が残る。
 直熊の肖像は、羽織を身につけ腕組みをして、まさにこれから相手の話を聞こうとする謹厳実直な西郷の姿を写し取る。そのような人物だったからこそ、命にかかわるほどのストレスにさらされたのではあるまいか。
 (編集委員・宮代栄一)


*私は、いくら憎いからといって、こういう人物を「下痢の安部ちゃん」(上野千鶴子氏)などと揶揄する気にはなれません。