西欧のセックスワーカーと身体

 事物は、おまえがそれに自己を与えるときにこそ偉大なものとなる。たとえば、石材の光沢とおまえの労働とを交換しようと試みたときに。けだし、石材の光沢は宗教となりうるからである。おのれの滅ぶべき肉体を滅びざる真珠と交換した娼婦を私は知っている。私はそのような信仰を軽蔑しない。これに反し、もしおまえが事物をあたかも香炉のごとくおまえ自身に隷属させるなら、その事物は卑しむべきものとなろう。事実、おまえのうちにはそのまえで香を焚くべきものなどなにひとつないからである(サン=テグジュペリ『城砦』原文1948年)。


 精神科医神谷美恵子氏は、サン=テグジュペリの「交換」の思想を高く評価しています。しかし、上記のような文章を読むと、キリスト教特有の身体の軽視や、「西欧哲学における心身二元論の明確な起源は、おそらく奴隷制である」という精神科医中井久夫氏の見解を想起せざるをえません。私は、「おのれの滅ぶべき肉体を滅びざる真珠と交換した娼婦を私は知っている。私はそのような信仰を軽蔑しない。」という考え方にはついていけません。
 私は、「からだ」は(宇宙)親神からの「かりもの」であり、私は自分のからだの「使用権」はもっているが、真珠と「交換」するような「可処分権」はもっていない、と思っています。