「かしもの・かりもの」の理の可能性

――「体はかりもの、心ひとつわがもの」(天理教


 もちろん、だからといって単純に非所有の関係に戻るわけにはいかない。個人の独立は自己決定の権利を基礎にしているからである。ここに必要な視点は、所有の概念と自由にしてよいという概念の連結を解除することである。じぶんのものだからといって思いのままにしてよいということにはならない、ということを知ることである。じぶんの存在が何ものかに負うという感覚を取り戻すことである。そういう謙虚さが、所有ではなくレンタル、あるいは贈与という関係を軸にした社会を構想させる。いま時代が必要としているのもそういう視点の転換ではないか。そういえば、ヒューマンの語源は、腐植土を意味するラテン語のフムスにあった(鷲田清一『死なないでいる理由』角川ソフィア文庫、2008年、p63)。


(前略)これらを前提として、「所有」という概念と制度についての根本的な見直しの作業が、つぎの一世紀をにらむ社会構想の中で本格的に取り組まれることになろう(同上、p68)。