アイデンティティと生き甲斐

 しかし今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞ずかしげもなく語られる時である。もはや「生き甲斐」の出番はなくなり、「アイデンティティ」概念も存在を脅かされているのではないか。八〇年代から弱々しい「自分さがし」がさまよえる魂の呟きとなった。アイデンティティ追求の猶予である「モラトリアム」も得難くなって、それは無期限の「ひきこもり」になったかに見える。しかしこれらもやがて過ぎ去るであろう。先の見えない移行期に私たちはいる。
 セーフティネットのない殺風景な世界が実現すれば、「生き甲斐」はもちろん「アイデンティティ」の追求も一種の贅沢になるだろう。冒頭に述べたように現にそういう社会はある。その行き着く果ては「人間であること」が贅沢とされる社会である。「アイデンティティ」や「生き甲斐」はもう古いなどと軽々しくいうべきではないと私は思う(中井久夫『樹をみつめて』みすず書房、2006年;pp.229-230)。


*ごもっともな意見です。