太宰治と「砕けた心」のゆくえ

 いずれにせよ、どのように難行苦行を積んでみたところで、罪の意識に悩む人間の心の苦しみが和らぐとは思えない。人間に必要なのは無条件の許しと、それを素直にうけとめる「砕けた心」でしかないと思う。それは多くの人の病める心をみていてうたがいえないのである(神谷美恵子『人間を見つめて』みすず書房、1980年、p.86)。

 人間というものは、人間を超えたものが自分と世界を支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、一日も安心して生きて行けるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知りえないものだ、と(同上、pp.108-109)。

 「砕けた心」とは、ドストエフスキーがその生涯にわたって深い影響を受けたフランスの思想家であると同時にキリスト教徒であったパスカルの『パンセ』に出てくる言葉です。これはキリスト教信仰を理解するためだけではなく、ドストエフスキーを理解するためにももっとも重要な言葉です。「砕けた心」とは「自分は何の価値もない人間だと絶望すること」です。言い換えると、ある不幸な出来事をきっかけに、自分をそれまで支えてきた自尊心あるいはプライドが、こなごなにくだけてしまうことです。「砕けた心」を持った人の運命は二つに分かれます。ある人々は「砕けた心」を持つことによって、神の存在に気づき、回心し、他者への奉仕に向かいます。一方、ある人々は、「砕けた心」を持つことによって、絶望し、回心できないまま、生きている希望を失います。このような人は自殺するかもしれませんし、自分の死の道連れに他人も殺すかもしれません。また、このいずれにも属さない人々、「砕けた心」を持つことがないまま人生の浅瀬を渡ってゆくだけの人々もいます。といっても、この三つの生き方に優劣はありません。人の生き方に優劣はあり得ません。ドストエフスキーの後期の作品、とくに『カラマーゾフの兄弟』には、この三種類の人々が登場します。

 太宰治の心は、27才の時(1936年)の、薬物中毒治療を目的とした精神病院への入院によって、いったんは「砕けた」のでしょう。しかし、太宰は結局は回心できないまま、生きている希望を失ったのでしょう。