私のからだは私のものか?

 「私のからだはわたしのもの」ー牟田和恵さんが、「ろくでなし子」さんの「まんアート」を擁護する文脈のなかで、この表現を用いておられます。


http://www.lovepiececlub.com/feminism/muta/2014/07/24/entry_005241.html


 「まんアート」を擁護するこの文章の趣旨自体には、全面的に賛成です。しかし、「私のからだは私のもの」という表現には、違和感を感じます。確かに、女性のからだは、「国家のもの」でも「男性のもの」(「父のもの」「夫のもの」)でもないでしょう。女性のからだが長い間そのように位置づけられてきた歴史的文脈において、日本のウーマン・リブが「私のからだは私のもの」と宣言せざるを得なかった必然性は理解できます。
 しかし、もし「私のからだは私のもの」と規定したら、例えば「アディクションとしての自傷」をしている現代日本の若者に、私が「やめたほうがいい」と説得しようとした時に、若者が「誰にも迷惑はかけていない」と反論してきた場合、私が再反論する根拠がぐらつきます(ちなみに、精神科医の松本俊彦氏は、現代日本の10代の若者で自傷の体験があるのは1割くらいではないか、と推測していますが、私の感触でもそのぐらいです)。経験的には、「就職活動のときに不利になる」と、功利的理由に基づいて説得するのが効果的です。
 そもそも、私のからだが「国家のもの」や「男性のもの」ではないからといって、「私のもの」と言い切れるのでしょうか?私は、この表現に、「遅れてきた近代主義」としてのフェミニズムの思想的限界を感じます。例えば、初期新宗教天理教では、「心一つわがもの、からだは(熊田註;親神からの)かりもの」と説きます。からだは、(神様からの)「かりもの」として大事に扱わなければならないのです。このような「前近代的」にして「非・合理主義的な」身体観は、自傷行為ー広くは「故意に自分の健康を害する」症候群(松本俊彦)ーに対する有力な歯止めになりうし、現になっていると思います。逆に言えば、現代日本において「故意に自分の健康を害する」症候群が大きな問題になってきた理由のひとつは、そうした宗教的身体観が弱体化してきたことに求められるのではないでしょうか。