三角坐り

 小学校の子どもたちは、この坐り方(熊田註;1958年に文部省が通達し、1960年代のわずか10年間に日本全国の小・中・高校に広まった「三角坐り」)は、お尻が痛い、窮屈だという。これが楽だ、気持ちがいい、という子にお目にかかったことはない。
 ところが大学入学以後になると、若い女性のほとんどは、当然のようにこの姿勢を取って座る。この姿勢が楽だ、小さく閉じこもっていると落ちつく、という人が三分の一くらいだろうか。この坐り方が慣習化して、からだのあり方を規定していることがわかる。


 自分の手で膝を縛って、最も小さな容積にからだを押し込めたこの形は、古い言い方に従えば、「手も足も出せぬ」ばかりか、息さえひそめた姿である。これはからだが動こうとする一切の可能性を封殺した、いわば檻に閉じ込めたと同じ形だ。(中略)旧軍隊の訓練が奴隷のからだを作り出すのを目指したと言うとすれば、今日の三角坐りは、ついに人体を「物体化」しつつあると呼ぶことさえできるだろう(竹内敏晴「教師のためのからだとことば考」ちくま学芸文庫、1999年、p13)。


現代日本の「会いに行けるアイドル」「週末ヒロイン」ももいろクローバーZの「はっちゃけた」身体パフォーマンスは、「三角坐り」という「学校的なるもの」に対する「身体の反乱」でもあるのでしょう。


<竹内氏への異論>
http://d.hatena.ne.jp/uchikoyoga/20110416 より転載
強めな言い方で書くと「文部省が子どもたちを奴隷のように縛ることを慣習化するよう定めた」とでもいうかのような内容なのです。ここをはじめに読んだとき、興味深いと思いつつも、なにかがひっかかりました。それは、うちこがまさにこれを「事実、楽と感じる」世代であり、身体的な面でいうと「拘束しているとは一概にはいえない」部分があると感じるからです。
まず「体育座り」は、仙骨を立てようとしなければ、非常に楽な部分が実際にあったりします。ふだん他者の中に自分を置きながら知らぬ間に緊張して狭くなっている胸の裏を開いてくれます。ウサギのポーズ(シャシャンカ・アーサナ)と同じ効用です。この許容範囲を与えている点では、親切な感じがします。
また、組んだ手からつながる「引っ張り」は、呼吸の量や強さを自己認識しやすい「ものさしの効果」がある。あの範囲で、遊んでいるわけです。
別の視点で、この姿勢は多くの人に一律で強いる場面においてはなかなかいい着地点ではないかと思ったりします。膝を畳んだ上に体重をかける正座(ヴァジュラ・アーサナ)は、西洋式の家庭で育った人には過酷です。昔お侍さんがすぐに相手を斬れないようにという意図があったと、なにかの本で読んだか、聞いたことがあることも思い出しました。
あぐら的な座り方も同様です。足首の硬い人には、たとえ反対の足に片足すら乗せていない状態であっても、足首の外側を伸ばす生活習慣的な姿勢がない人にはキツい。
そして、ありえませんがいちおう書いておくと、いわゆる「おばあちゃん座り」といわれる正座からかかとを開いてその間に尻をおくのも、そうです、膝の外回転や足首の外回転なんぞはもう、人によっては拷問です。
長座(パスチモッターナ的な)ものは、膝も伸びるし腹筋も程良く使うしで、うちこ的にはかなり推奨なのですが、集団で行なうにはスペース的に効率が悪すぎる。
こうやって考えていくと、地面に座ったりしゃがんで作業をすることが減っていく生活様式の変化の中で、体育座りはなかなかの発明ではないかと思ったりします。(肥満児にやさしくない点を除いては)
むしろうちこの視点で残念だと思うのは、「腹筋を使わないでオッケーな感じ」だったりします。ずっと仙骨後ろ倒しでも、まあオッケーっすよ。という形になっています。ここでは胸を圧迫していると書かれていましたが、言い換えると「胸を閉じててもオッケーっすよ」ということになるので。
「長座から膝を畳んでみた」という形のなりゆきと、「脚に負担がなくすぐに立ち上がりやすい」という合理性を考えたら、そんなに拘束感のある姿勢ではないと思います。
呼吸については、たしかに深く吸えないし大きな声も出しにくい。これは本当におっしゃる通り。
「そのツッコミはマニアックすぎるよ」といわれるかもしれませんが、多角的に身体を意識することがなかったら、この章を読んで「ほんとだ! ひどい」という意識に引っ張られていたかもしれない。子どもや弱者を題材にされると、特にそういう引力が働くので。
本を読んでいると「なるほど」と思うことがたくさんあるけれど、自分の感覚で疑ってみる読み方ができるくらいの冷静さは、強く気持ちを引っ張る力のある主張や弁論に出会ったときも忘れずにいたいものだ、と思いました。