『アリス』の保守性について

http://kigourmand.at.webry.info/201004/article_6.html より転載
アリス・イン・ワンダーランド』、剃刀と剣


 いつの間にかすっかり「大作」を手がける映画監督として名を馳せているティム・バートン監督。
 いったいぜんたい、それがこの愛すべき作家にとってふさわしい栄光なのかどうかと訝りつつも、かねてより縁の深いディズニーでとうとう3D映画まで撮ったというのですから、それはそれで大いに祝福すべきことなんだろうと自分に言い聞かせるわけです。
 どうしても、不幸な幸運、という類の言葉が脳裏を掠めてしまうとしても。

 さて、監督としては前作にあたる『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007年)で、極めて重要なアイテムとして登場したのがスウィーニー・トッドが愛用する剃刀のセットでした。
 それは一見バートン的な幻想空間にほどよく収まったひとつの小道具として映りながら、最終的にはその空間そのものを文字通り切り裂いてしまう装置として機能したわけです。
 そしてその剃刀は、映画のラストでトビー少年(エド・サンダース)の手に渡ったんでしたね。

 で、『アリス・イン・ワンダーランド』で大地に突き刺さったヴォーパルの剣が映されたとき、僕たちにはそれがあの剃刀と重なって見えるわけです。
 怪物ジャバウォッキーを倒すべくアリス(ミア・ワシコウスカ)が手にするはずのヴォーパルの剣、その煌きは、やっぱりあの剃刀とどこかで通じている。
 とすると、『アリス・イン・ワンダーランド』は、あの『スウィーニー・トッド』の剃刀の、「その後」の遍歴を描くものだと思いたくなるわけです。
 なぜ「その後」なのかというと、それはこの映画そのものがアリスの「その後」だからです。
 原作の映画化ではなくその13年後を描こうとした理由のひとつは、そんなところにあるんじゃないかと思うんですね。
 一度は剃刀によって幻想空間は切り裂かれ、僕たちの前に「現実」が露呈した。
 だから再び幻想空間に「戻った」剃刀の「その後」を描くためには、アリス自身もまたワンダーランドへ「再訪」するのでなければならなかったということでしょう。
 実際、アリスの再訪、そして彼女が赤の女王(ヘレナ・ボナム=カーター)のもとから白の女王(アン・ハサウェイ)の手にヴォーパルの剣を取り戻し、その剣によって怪物ジャバウォッキーを倒すことは預言の書に記されています。
 それはいわば『スウィーニー・トッド』の再現で、トビー少年の剃刀は剣へと姿を変えてアリスに手渡され、アリスはその剣によって怪物ジャバウォッキーの首を刎ねる。
 そうすることでアリスはこの幻想空間を切り裂き、そして現実世界へと戻っていくわけです。
 だから預言の書は、つまりはこの物語がそもそも『スウィーニー・トッド』から始まったことを教えてくれているのかも知れません。

 それにしてもこの映画でティム・バートン監督が、「大作」にはどこかふさわしくない手際のよさを煌かせるにつけ、やっぱり彼の不幸な幸福について考えずにいられません。
 それとも彼は「大作」という幻想空間で、アリスのように、怪物ジャバウォッキーを倒すためのヴォーパルの剣を探し歩いているんでしょうか。


*私としては、19歳になったアリスが「戦う」、つまり「女性の男性性」を発揮して日本アニメでいう「戦闘美少女」となるために「魔法の剣」という武器を必要とするという点に、ティム・バートン監督とディズニー文化の保守性を感じます。日本でも、1990年代のアニメ『セーラームーン』・シリーズでは、少女たちは戦うために魔法や武器を必要としました。しかし、2000年代のアニメ『プリキュア』・シリーズでは、少女たちは悪の勢力に対して素手で肉弾戦を挑みます。『アリス・イン・ワンダーランド』と違って、日本のアニメでは、少女たちは戦うために「魔法の武器」をもはや必要としなくなっているのです。