ディックのSF作品と記憶操作・気分操作

 近年、生命倫理の領域で、エンハンスメント(心身強化、増進的介入)の是非がホットな話題となっています。エンハンスメントのもっとも重要な問題のひとつは、「幸せな魂」を追求ために、記憶の操作や気分(mood)の操作を行ってよいのか、という論点です。アメリカの生命倫理学は、人間のテクノロジーや薬物に対する依存を強め、「個人の自律性(autonomy)を脅かす」という観点から、記憶の操作・気分の操作に対して危惧の念を表明します。こうした「自律性至上主義」の背景には、キリスト教文化が暗黙の前提として存在すると思われます。
 この点に関して、先駆的な洞察を展開していたのは、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディック(1928-1982)だと思われます。ディックの代表作「アンドロイドは電気羊を夢を見るか?」(1968)では、「原始キリスト教をモデルにした」(ディック自身の解説)マーサ教と呼ばれる宗教文化を背景に、核戦争後の近未来には「アンドロイドに記憶を注入する」という記憶操作技術や「ムード・オルガン」という気分操作技術が可能になっているというSF的前提に立って、「アンドロイドと人間を分かつものは何か」という宗教哲学的命題が追求されます。
 アメリカ人は、キリスト教文化を暗黙の前提としているからこそ、記憶操作・気分操作に対して「自律性至上主義」の観点からしか反対しないのでしょう。キリスト教文化を共有しない日本人の場合、記憶操作・気分操作に対する抵抗は、アメリカ人よりもずっと強いものになることが予想されます。