精神医療 の検索結果:

境界性パーソナリティ障害

…しいというケースが、精神医療の現場で徐々に目につくようになった。当時は、「境界例」という診断名が用いられた。パーソナリティ障害としての診断を受けていないケースでも、うつ状態や摂食障害、薬物乱用、家庭内暴力などのケースに、境界性パーソナリティ障害を抱えているケースが、少なくないことが指摘されるようになったのである。 九〇年代以降、ごく普通の家庭でも、こうした状態の家族を抱え、あるいは、自分自身がその問題で悩み、どう対処すればいいのか、どう克服すればいいのかと悩んでいる人が急増し…

「やわらかな治療」と宗教

…」の典型的な例でしょう。量で圧倒しようとするような薬物の使用法に対しては、“原爆主義”という皮肉があるそうです(中井久夫『精神科治療の覚書』日本評論社、1982年、p.78) 中井久夫さんが別のところで指摘しているように、日本の精神医療は、欧米の精神医療が近代に脱宗教化されたのに対して、近世(江戸時代)というずっと早い時代に脱宗教化されたのであり、それだけに、「近代は終わった」とも言われるいま、ようやく<再宗教化>の必要を欧米よりもずっと痛切に感じている、ということでしょう。

精神医療と宗教的身体観

身体は神様から借りているもの、という見方について考えてみます。どういうことかというと、患者さんの中には時々自らの体を荒らす人がいる。自傷行為に象徴されますが、リストカットをしたり、大量服薬をしたり。自暴自棄になってそうしてしまうことが多いかれど、そもそも自分の身体は自分の判断でいかようにも扱えるという驕りがあるからだと思います。 そうではなくて、身体というものについてより謙虚になれないものかという意味を込めた見方です。医師だけではなく、患者さんもその身体をいつくしむべきではな…

SSRI治療に対する内部批判

…5-)は、現代日本の精神医療ではあまり行われていない「行動療法」の必要性を主張し、「『身体醜形障害』や『強迫性障害』は薬物では治らない」と断言します。 (熊田註;広場恐怖症を伴なうパニック障害の患者だけではなく)「身体醜形障害」の場合も、やはり(熊田註;「行動療法」の一種である)暴露療法が有効です。患者は、他人の目から見ると「自分の顔が醜い」と思っているので、「醜い」と言われるのが怖くて、一人で家にこもっていることが多いのです。かつては顔へのこだわりでしたが、次第に手足・胸・…

天理教教祖の<内蔵籠もり>

…天理教が、精神障害者について、精神医療とどのように分業しているかに興味があります。「現在、手探り中」という状態のようです。ちなみに、英米における精神病院の看護婦の多くは、今でも、人間の「内なる光」の存在を信じるプロテスタントのクェーカー派の信者だそうです。 天理教教祖・中山みき(1798-1887)の場合、「夜なべの後の念仏」が、神がかり後は、3年間にわたる一人きりの<内蔵籠もり>に発展し、それによって自分の<個的領域>を拡大させ、「中山家」から「自立」したのかもしれません。

太宰文学と「残酷な神の支配」

…年)。しかし、太宰文学を読むと、少なくとも現代の日本人の場合、心理学者エリクソンの言う世界への「基本的信頼」を獲得できないまま育った人の場合、「漠然たる不安」の中に、「残酷な神=狂った創造神」の姿が垣間見えることがあるようです。精神科医の中井久夫の指摘によれば、欧米の精神医療では、クライアントに性について質問することはオープンになっても、宗教について質問することは依然としてタブーだそうですから、調査するのは難しいことでしょうが(中井久夫「分裂病と人類」UP選書、1982年)。

宗教界・宗教学・精神医療のマッチョな共犯関係

…扱う宗教界・宗教学・精神医療は、男性中心主義という点で共犯関係を結んでいるのが現状です。 1.宗教界の男性中心主義について 天理教の機関誌「みちのとも」2008年10月号に、次のような記事が掲載されています。 夫の酒乱と暴力に苦しむ女性患者に、心療内科医でもある男性信者が、「夫に感謝していますか?」と指導し、患者が「夫にお金をもらっている」ことを思い起こして感謝したら、夫が酒量をコントロールできるようになり、夫婦関係が改善されたという「おたすけ(?)」の話が掲載されていました…

AC・よそもの・私とあなた

AC

…を例にとってみよう。精神医療の専門家ではない一般生活者には、例えば「食欲に関係するホルモン」の話はほとんど理解できない。しかし、摂食障害者の背後にある家族関係については、専門家でなくともよく理解できる。しかし筆者は、単にそれがわかりやすいからというだけではなく、AC概念が現代の先進国に生きる人たちの精神生活の一面を確実に捉えている、という側面もあると考える。 この論文では、こうした広い意味でのAC概念を用いて、宗教哲学の古典マルティン・ブーバーの「我と汝」、およびフランス文学…

精神科医・斎藤学氏の勘違い

…とに対しては、厳しく非難せざるをえない。「システム」という無定義概念にドメスティック・ヴァイオレンスの「責任」をすべて押しつけて、加害者男性を免責している発言だからである。極端な言い方をすれば、「妻子に暴力を振るうボクちゃんは悪くない、みんな世の中が悪いんだ」と宣言しているようなものではないか。こうした問題は、斎藤学氏の個人的な資質の問題というよりも、斎藤氏が属する日本の精神医療の業界全体が強固なジェンダー保守の体質を維持していることからくる構造的な問題なのではないだろうか。