現代人の孤独

自分ではない誰か。
目の前にいて自分を見つめてくれる誰か。
自分がいなくなってもその場に在りつづけ、自分と同じように世界を眺め語り死んでいくであろうそんな<他人>を信じることは、きっとそのまま私たちの生きる世界を信じることであり、それが唯一の<現実>であることを信じることに違いない。
 そんな<他人>に会いたい。
 その出会いの後には、私は決して今の私ではなく、現実は<私の現実>ではない唯一のかけがえのない<現実>となって私の前にひろがるに違いない。
 今<希望>や<救い>を語ることは、そんな出会いを通過することなしにはあり得ないのではないかと、そう思えてなりません。
押井守天野喜孝天使のたまご徳間書店、1985年、pp.154-155)

 

 われわれの周囲には外見的にみると、うんざりするほどの人また人である。しかし、元気で社交的な人々には想像しがたいかもしれぬが、或る種の人間にとっては適切な時期に適切な人々と適切な仕方で 出会うことは案外むつかしいことなのだ。精神衛生という問題が公衆衛生と違うところは、こうしたきわだって個人的な次元の、しかも顕わにされにくい点に戦略点があることだと私は思う(笠原嘉『青年期ー精神病理学からー』中公新書、1977年、p30)。

 

「<性>の侵入」が早期化して、「競争原理の早期化」が進み、精神医学者H・S・サリヴァンが愛の原型として重視した「前青年期の親友関係」が怪しくなった現代、この押井守氏の言葉に惹かれる若者は多いと思います。「友だちはいらない」という本を書いている押井氏も、「ひきこもり」に親和性のあるアニメーターなのでしょう。