アンパンマンとカニバリズム

http://d.hatena.ne.jp/daen0_0/20080717/1216228401 より転載
アンパンマンほど哲学的なアニメはない


「僕の顔を食べなよ」
これほど深遠な哲学を内包したセリフはないでしょう。


1.食パン主義
一見狂気に満ちたカニバリズムですが、動物のキャラクターたちは何の抵抗もなく差し出された肉片ならぬパン片を頬張るのです。おどろおどろしい儀式の最中でもない、牧歌的な日常の中でこのような蛮行を目にするのは、より狂想的です。しかしさらに恐ろしいことに、多くの日本の子どもたちはこの光景になんら違和感を持たないのです。私も齢20歳になってようやくこの狂気に気づきました。日本人はカニバリズムのアニメを見て育つんだぜ! HAHAHA そいつはクレイジーだ! という会話が海外でなされていると聞き、ああ、たしかにこいつはクレイジーだと今さらながら実感した次第です。


2.自己犠牲の意味
しかしこのアニメは深い。まず人間をはじめとする動物が基本的に「食う―食われる」関係にあることをグロ描写を一切せずに明示したのです。私たちは生きるために他者を殺さなければいけません。スーパーで売っている肉も野菜も全て人間の都合のためだけに殺されました。私たちは食べるために殺し続ける存在なのです。そんな弱肉強食サバイバルな世界において他人を助けようと思ったら、自己を犠牲にするしかありません。つまり他人に自分が「食われる」必要があるのです。そりゃあ資源が有り余っていたら自己を犠牲にすることなく人助けができるでしょうが、パイが有限の場合、自分のパイを相手に譲らなければいけません。つまり自分のパイならぬパンを相手に与えるわけです。一見これは美徳ですが、その本質は「僕の顔をたべなよ」というようなおぞましい行為です。お前自分が食われるんだぞそれでいいのか! というツッコミが必要な、生命の本質に反した邪教なのです。
ニーチェは生命の本質を「権力への意志」だとしました。これは「食う―食われる」関係しかないのだから、自分が食われる前に他者を食うべきだ、それが人間の最も根本的な意志である、という考え方です。そして自己犠牲を説くキリスト教はこの生命に本質に反した邪教だと批判しました。この自己犠牲のおぞましさを最も端的に示したのがアンパンマンです。
しかしその自己犠牲も消費者や第三者にとって見たら「アンパンって美味しいよね」みたいな下らない感想しか引き出しません。身を削っている方はどんな思いをしていようが、搾取する側にとっては文字通りおいしい話なのです。この自己犠牲の割に合わなさも巧みに表現しています。
巧みといえば、その哲学性をうまく隠して立派に子供向けアニメとして確立しているのも驚嘆に値します。
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たとえばこの教育は個人的には賛成ですが、反発も多いと思います。しかし、アンパンマンも同じような理由で放送中止にしようという批判は聞いたことがありません。「食う―食われる」関係を最高にメルヘンに表現し、子どものハートを鷲掴みにしたアンパンマンは偉大です。


3.生命の本質
まだまだ続きます。アンパンマンは顔が濡れると力が出ないという設定があります。ふつうならドライヤーで乾かしたりタオルで拭いたりするわけですが、バタコさんは顔ごと取り替えるという暴挙に出ます。それも臓器移植のような繊細なオペではなく、バタコさんのコントロール抜群のピッチングによって新しい顔をぶん投げ、強引に古い顔を弾き飛ばすという方法です。しかしこんな野蛮な方法でも、アンパンマンは元気100倍になり復活するようです。
この寓話はなかなか興味深い。ふつう私たちは人間の本質は脳であり、脳内の精神活動こそが生命であると考えています。しかしアンパンマンはそんな脳をそっくり取り替えてしまうのです。アイデンティティはどうなるんでしょうか。イーガンもびっくりです。
アンパンマンの脳は胴体に存在し、顔は動力源にすぎないという仮説も立てられますが、もっと深い考察もできます。つまり生命の本質は物質ではなく、同じ物質の状態を再構成しようとする流れである、という寓意を導くことができます。私たちは日々異物を食べ、消化し、排出しています。その過程で古くなった細胞は廃棄され、次々と新しい細胞に入れ替わっています。おそらく生まれた直後と今の自分では、身体を構成する分子がほとんど入れ替わっているでしょう。アイデンティティは物質ではない、それゆえに身体は取替え可能なのだ、というメッセージを視覚的に表現したのが、あのアンパンマン顔とっかえシーンだったのです。
臓器移植や精神の電子コピーなどの倫理的問題を豪快に解決するアンパンマン。なんて高踏的なんでしょうか。神林長平戦闘妖精・雪風(改)」にも通じる哲学です。
そしてアンパンマン自身はパンを焼くことができず、新しい顔を作れないという設定も奥深い。パン職人のジャムおじさんと稀代のピッチャー・バタコさんがいてはじめてアンパンマンという存在は成り立つのです。私たちが口にする食品も、ただ単に「食べられる」存在ではなく、また別の何かを「食べる」こともあれば、植物のように自身の分身をコピーすることもあります。人間が食料抜きには生きてゆけないように、一切の存在が別の存在に依存しているのです。このどこまでも続く「食う―食われる」関係を想起させるアンパンマンの思想は仏教における縁の概念と似ています。


……というようなネタで小林泰三あたりが小説化しないかなあ。