スナフキンと「斜めの関係」

1.スナフキンは、われわれが“さよなら”してしまった何かを思い起こさせる存在


 われわれは幼い頃に、程度の差はあれスナフキンに近い人間と巡り会っているのではないでしょうか。事実上は“お兄さん”で、自分より一歩も二歩も先にいる存在なんだけれど、自分勝手な思い込みかもけれども、それでも友だちなんだ、と。ところが、人間は成長するにつれて、先輩後輩関係をはじめ、上下関係が基本となる世の中の考え方に染まってしまう。いつの間にか、幼少の頃の豊かな関係性と“さよなら”してしまっているんです。
 アニメ版の最終話で、冬眠につくムーミンと南の国に旅立つスナフキンの別れのシーンが象徴するように、スナフキンはつねに“さよなら”という言葉とオーバーラップする存在なのではないでしょうか?私はスナフキンのことを考えるたびに、心の中にさまざまな過去や記憶への郷愁の思いが沸き起こります。どの時点なのかはっきりわからないのだけれど、いつの間にか“さよなら”してしまった関係性や思いについて、何度も思い出し、その意味を咀嚼しながら今まで生きてきたように思うんです。
 “さよなら”と向き合うことで、私は、自分自身の哲学を生み出し、育んできました。私にとって、アニメ版『ムーミン』は哲学の源泉そのものであり、“さよなら”そのものなのです(「瀬戸一夫インタビュー」『ダ・ヴィンチ』2005年12月号特集「自由と孤独と音楽を愛する放浪の吟遊詩人スナフキンにさよなら。」メディアファクトリー、2005年、p25)。


2.アニメーションでのスナフキンと、原作のスナフキンって逆の行動をするのが面白いです。アニメではみんなの様子を陰から見守り、重要なところで出てきてキーワードを残してまた去ってゆくような感じですよね。それに対して原作のスナフキンは、普段はいろいろ言うくせに、ここぞって時にいなくなってしまう(笑)(祖父江慎スナフキンは二重人格!?原作とアニメは正反対」、同上、p16)。


3.スナフキンは原作ではムーミンと同じくらいの子ども、という設定。ところが、アニメではお兄さん格の大人として描かれています。これが良かったのだと思います。とても頼もしくて一緒にいたい存在だ、と見ている子どもたちにも感じられたでしょう。アニメの中でもスナフキンが旅に出る場面が多くて、「さようならスナフキーン」と叫んでいると、私自身も寂しくなりました(岸田今日子スナフキンが旅に出ると私も寂しくなりました」、同上、p24)。


*日本の虫プロ版アニメ『ムーミン』(1969年・1972年)の視聴者であった当時の子どもたちが、ムーミンスナフキンの関係に児童精神科医高岡健さんのいう「斜めの関係」を見ていたことを示す証言です。