新宗教における「女頭目」の系譜

 拙論「天理教教祖と<暴力>の問題系」(『愛知学院大学文学部紀要』37号、2008年)において、私は中山みき(1798-1887)の「女頭目」(赤松啓介)または「女侠」(北村透谷)としての側面をクローズ・アップしました。天理大学の池田士郎さんは、「教祖の死後も女頭目的な人は大勢出ている」とおっしゃいますが、明治30年代以降は、やはり良妻賢母主義に押されて教団では女頭目的な人は活躍しにくくなり、戦後の二代目真柱(教主)・中山正善による「復元」(近代的な教典の編集)によってますます周辺に追いやられたのだと思います。中山みきの「女頭目」的な側面を後世にもっとも純粋に受け継いだのは、教団の女性たちよりも、むしろ「神芝居」の「女役座」を自称した「踊る宗教」天照皇大神宮教(1946-)の教祖・北村サヨ(1900-1968)ではないでしょうか?天照皇大神宮教の「六魂清浄(ろっこんしょうじょう)」(六魂とは「惜しい」「欲しい」「憎い」「かわいい」「好いた」「好かれた」)の教えには、明らかに天理教の「八つのほこり」(「おしい」「ほしい」「にくい」「かわいい」「うらみ」「はらだち」「よく」「こうまん」)の教えの直接的影響が見て取れます。佐藤忠男さんは、「草の根軍国主義」という本では、「太平洋戦争中、国民の気分は忠臣蔵だった」と、「忠臣蔵―意地の系譜」という本では、「戦争中、国民は米英に意地を張っていただけではなく、お互いに意地を張り合っていた」と述懐しています。敗戦後の、そうした軍国主義的なジェンダー秩序と覇権的男性性がガラガラと崩れた特殊な時代状況の中だったからこそ、北村サヨは近世庶民的な「女侠」を全面的に打ち出して大衆動員することに成功できたのだと思います。

 女役座になりました。女役座というものは、敗戦国のこじきの男、百万匹前にしたとて、ひけもとら ねば、さりとて女子供でも、真心持ちとみたならば、にっこり笑うて済度するのが、女役座の腕前じ  ゃ・・・(三好徹「女役座一代」読売新聞社、1975年、p40)

 北村サヨが行っていた「歌説法」の前口上です。そういえば、カウンセラーの信田さよ子さんも、「やくざ」を自称なさっています。

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