「儀式」と笑いの精神
実際儀式には意味なんかなくてもいいんだよ。互いにそれを儀式だと認め合ったら、それが儀式になる。そしていったん儀式になってしまうと、不思議な魔力を発揮しはじめるんだ。だから、その儀式に対してもし言語が笑いの精神を忘れたら、その時はもうおしまいだろう。一般に、儀式の追加はありえても、削除のケースはまずありえないからね(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p186)。
*ジェンダーをパフォーマンス・儀礼とみて、「攪乱的なパフォーマンス」を戦略として主張するジュディス・バトラーを先取りしているような議論です。
漱石の『こころ』がわからない男たち
僕もね、正直言いまして、『こころ』ってよく理解できないんです。「文学の奥深さ」に行きつく前に、「なんなんだよ、この話は?」みたいな方に行ってしまいます。あの登場人物がみんな何を考えているのか、さっぱりわからなくて、感動できませんでした。すみません。でも、そういう人って、僕のほかにけっこういるんじゃないでしょうか?「『こころ』はもうひとつよくわからんクラブ」というのをブログで立ち上げたら、けっこう盛り上がりそうな気がするのですが(村上春樹「村上さんのところ」新潮社、2015年、p129)。
*橋本治が『蓮と刀ー男はなぜ“男”を怖がるかー』(河出文庫、1986年)で見事に指摘しているように、漱石の『こころ』は、土居健郎がいうような同性愛「的」感情を描いた小説ではなく、ずばり「ホモ小説」です。村上春樹のような「漱石の『こころ』がわからない男たち」は、「内なるホモセクシュアリティ」を徹底的に抑圧しているヘテロ男性たちなのだと思います。
近代日本「新撰組」幻想
安部 赤軍派に似ているのは、新撰組だな。新撰組が京都にーあれは会津藩から派遣されたのかな。それで幕府側の秩序を守るためにかり集められて、百姓が急に侍にされて京都に送られたわけだ。
ところが、なかにはほんとに侍もいたわけさ、上のほうには。ところが、近藤勇と土方歳三が徹底的に、総括システムで、「総括、総括」でリンチして、上のほんとの侍、全部殺しちゃった。最後に土方と近藤ーあれ両方とも百姓だからなーが残って、そのときにはじめて、新撰組というものは内的に確立するわけだ。新撰組伝説は全部、内ゲバ神話だな(安部公房(他)『発想の周辺ー安部公房対談集ー』新潮社、1974年、p137)。
*連合赤軍事件に直接に影響を与えたのは、直接的には司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』(1962-1964)でしょう。ジェンダー・コンシャスなマンガ家の高橋留美子は、「萌えよ剣」というパロディー・ゲームを作っています。