在特会とヘイト・スピーチ

(前略)核戦争は肉体のご破算だけど、その前にもっと誘惑的な精神のご破算願望があるだろう。いま自分を弱者におとしめている条件を叩きつぶすために、徒党を組んで、その徒党に忠誠をつくす快感。強烈な排外主義と裏腹になっているけれど、これも一種の疑似平等感だよね。ナチスだって国家という帽子こそかぶっていたけど、いちおう社会主義を名乗っていたんだ。なんとも御愛敬じゃないか。やはり民衆の夢としての平等感を餌にせざるをえなかったんだな(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p182)。


現代日本の、新自由主義の経済体制下における、在特会やヘイト・スピーチの氾濫が想起されます。

「儀式」と笑いの精神

 実際儀式には意味なんかなくてもいいんだよ。互いにそれを儀式だと認め合ったら、それが儀式になる。そしていったん儀式になってしまうと、不思議な魔力を発揮しはじめるんだ。だから、その儀式に対してもし言語が笑いの精神を忘れたら、その時はもうおしまいだろう。一般に、儀式の追加はありえても、削除のケースはまずありえないからね(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、p186)。


ジェンダーをパフォーマンス・儀礼とみて、「攪乱的なパフォーマンス」を戦略として主張するジュディス・バトラーを先取りしているような議論です。

漱石の『こころ』がわからない男たち

 僕もね、正直言いまして、『こころ』ってよく理解できないんです。「文学の奥深さ」に行きつく前に、「なんなんだよ、この話は?」みたいな方に行ってしまいます。あの登場人物がみんな何を考えているのか、さっぱりわからなくて、感動できませんでした。すみません。でも、そういう人って、僕のほかにけっこういるんじゃないでしょうか?「『こころ』はもうひとつよくわからんクラブ」というのをブログで立ち上げたら、けっこう盛り上がりそうな気がするのですが(村上春樹村上さんのところ」新潮社、2015年、p129)。


橋本治が『蓮と刀ー男はなぜ“男”を怖がるかー』(河出文庫、1986年)で見事に指摘しているように、漱石の『こころ』は、土居健郎がいうような同性愛「的」感情を描いた小説ではなく、ずばり「ホモ小説」です。村上春樹のような「漱石の『こころ』がわからない男たち」は、「内なるホモセクシュアリティ」を徹底的に抑圧しているヘテロ男性たちなのだと思います。

『村上さんのところ』の性差別発言

 男性よりも女性の方がより悪が深いのか?より致死性が高いのか?こんなことを言うと叱られそうだけれど、たぶんそのとおりだと僕は思います。男性の悪が堅く地殻的なものだとすれば、女性の悪は流動的な溶岩に近いものです。前者が意図的なものだとすれば、後者は本能的なものです。地表に吹き出したとき、それは致命的なものになります。その怖さをたぶん昔の人は言葉にしたのだと思います(村上春樹「女性の悪と男性の悪」『村上さんのところ』新潮社、2015年、p128)。


*この本がベストセラーですから、「やれやれ」です。

近代日本「新撰組」幻想

安部 赤軍派に似ているのは、新撰組だな。新撰組が京都にーあれは会津藩から派遣されたのかな。それで幕府側の秩序を守るためにかり集められて、百姓が急に侍にされて京都に送られたわけだ。
 ところが、なかにはほんとに侍もいたわけさ、上のほうには。ところが、近藤勇土方歳三が徹底的に、総括システムで、「総括、総括」でリンチして、上のほんとの侍、全部殺しちゃった。最後に土方と近藤ーあれ両方とも百姓だからなーが残って、そのときにはじめて、新撰組というものは内的に確立するわけだ。新撰組伝説は全部、内ゲバ神話だな(安部公房(他)『発想の周辺ー安部公房対談集ー』新潮社、1974年、p137)。


連合赤軍事件に直接に影響を与えたのは、直接的には司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』(1962-1964)でしょう。ジェンダー・コンシャスなマンガ家の高橋留美子は、「萌えよ剣」というパロディー・ゲームを作っています。

三島由紀夫のDV論

 インテリ男は、「なぐる」ということなど、知識人のすべき所業ではないと思っているが、女性にはもっと原始的な憧憬が隠れていて、男の本当に強烈な精神的愛情のこもった一トなぐりを受けたときに、相手の男らしさをパッと直感するらしい(三島由紀夫『不道徳教育講座』角川文庫、1967年、p116)。


*いくらウーマンリブ以前の文章とはいえ、三島由紀夫のマチズモの本性が出ている文章だと思います。

又吉特需

 日本の文学界に、「又吉特需」がきているそうです。昔からの又吉ファンとしては、嬉しいです。「村上春樹」しか頼るものがなかった文学界にとっても、めでたいことでしょう。長かった「村上春樹の時代」の「終わりの始まり」なのかもしれません。