ボブ・ディランと村上春樹

モンクがピアノを弾く手を休めたとき、ディランは何気なく「僕は道端でフォークソングを演奏しています」と言った。モンクは間髪を容れずに言った。「我々はみんなフォークソングを演奏している」と(村上春樹(編・訳)『セロニアス・モンクのいた風景』新潮社、2014年、p144)。


*私の好きなエピソード。村上春樹が紹介しているところにも、因縁を感じます。

百田尚樹氏の囲碁小説ー「男たちの楽園」ー

―男たちをみていると、女に選ばれることよりは、同性の男たちから「おぬし、できるな」と言ってもらえることが最大の評価だと思っているふしがある。
 男たちがカラダを張ってまであれほど仕事に熱中するのは、「妻子を養う」ためでも、「会社以外に居場所がない」ためでもなく、パワーゲームで争うのがひたすら楽しいからに違いない、と私はにらんでいる(上野千鶴子『男おひとりさま道』文春文庫、2012年(初出2009年)、p114)。


 安倍晋三首相の「お友達」である右翼的作家の百田尚樹氏が、『週刊文春』で、現在「幻庵(げんなん)」と題する囲碁小説を連載しています。「この物語は江戸後期から幕末にかけて碁界最高権威「名人碁所」の座をめぐり死闘を繰り広げた男たちの記録である」。なぜ囲碁に題材を求めたかというと、女性を排除できる世界だからでしょう。確かに、囲碁や将棋のプロの世界では、男女差はまだほとんど埋まっていません。女性を排除した「男たちの世界」で、よき「ライバル」関係、つまり日本語の絶妙な表現では「好敵手」関係、J・デリダの言葉を借りれば「ミニマルな友愛」の関係が次々に活写されます。『週刊文春』の主要な読者である中高年男性にとっては、「男たちの楽園」を描いた物語なのでしょう。



 

小説『砂の女』とジェンダー

 以上の検証から、本稿は小説『砂の女』を、肉体に躓き、肉体からの逃走を図った男が、肉体の側からの復讐として、肉体そのもののような<女>との対峙を強いられ、<女>との通路の回復、再びの喪失を経て、最終的に肉体との和解へと至る物語であったと結論する(木村陽子『安部公房とはだれか』笠間書院、2013年、p283)。


*これは、鋭い指摘です。

村上春樹と村上龍とオウム事件

 テレビで知ったのですが、村上春樹村上龍の『コインロッカー・ベービーズ』を読んで、「こんな小説を書きたい」と小説一本で生きていくことを決心したそうです。私がオウム真理教による地下鉄サリン事件の一報を聞いてまっさきに思い浮かべたのも、『コインロッカー・ベービーズ』でした。村上春樹は、最初からオウム真理教と「紙一重」のところにいたようにも思われます。私も人のことはいえませんが。


小説『1Q84』における悪の表象について
http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20100830/p1

カフカの宗教観

(前略)わたしは、いずれにしてもすでに重く垂れ下がっているキリスト教の手によって、キルケゴールのように生に導かれはしなかったし、ひらひらと逃れていくユダヤの祈祷マントの裳裾の端に、シオニストのようにやっとのことで取りすがったりはしなかった。わたしは終末である。さもなければ発端である(フランツ・カフカ『夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー、1996年、p138)。


 人間は、自分のなかにあるなにか<不壊なるもの>、破壊できないものへの永続的な信頼なくしては生きることができない。その際、不壊なるものも、また信頼も、彼には永続的に隠されたままであるかもしれない。こうした<隠されたままであること>を表わす可能性の一つが、人間になぞらえられた<人格神>への信仰である(同上、p169)。


ユダヤ人であったカフカが、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなかったものの、極めて「宗教的な」人間であったことがよくわかります。

「村上主義者」の保守性

 百田尚樹永遠の0』(講談社文庫、2009年)のアマゾン・ブックレビューに以下のような書き込みをすると、「30人中18人」が「参考になった」としています(2015年8月20日時点)。


 長い目で見れば「男らしさ」「女らしさ」から「自分らしさ」が大事という方向に移り、ジェンダー(社会的、文化的性差)は解消に向かうでしょう。
 今は過渡的な時期。近代の「男らしさ」への愛着も根強く残っている。その特徴の一つはパターナリズム(父性的温情主義)。男は女や子どもを守るものだという考え方です。もう一つはホモソーシャル(女性・同性愛者嫌悪に基づく男性同士の連帯)な絆。心の中は男性の戦友のことでいっぱいで、それを最優先します。
 その典型が、昨年、小説と映画が記録的なヒットになった『永遠の0』の主人公です。彼は特攻に反対でしたが、自分だけが助かっていいのかという気持ちから特攻機に乗る。そして、部下だけは助かるようにして死んでいきます。生き残った部下は主人公の妻と子どもを守ると決意します。つまり、男同士の絆ほど尊いものはないということです。間接的に女性や同性愛者をおとしめるソフトな性差別の作品だと思います。「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界」を描く任侠映画が大好きだった団塊左翼には、否定しにくい作品でしょう。


 しかし、村上春樹村上さんのところ』(新潮社、2015年)に以下のようなブックレビューを載せても、「参考になった」という人は、「2人中0人」です。


 文学や音楽についての該博な知識から教えられることが多く、一読の価値はあると思います。例えば、私はこの本でジャズ・ピアニストの大西順子について教わりました。しかし、村上さんは女性や同性愛者に理解があるつもりのようですが、無意識のレベルでは、団塊オヤジ特有の女性嫌悪と同性愛者嫌悪から自由になれないのだと思います。
 男性よりも女性の方がより悪が深いのか?より致死性が高いのか?こんなことを言うと叱られそうだけれど、たぶんそのとおりだと僕は思います(p128)。―男性よりも女性のほうが罪や業が深い、というのは、典型的な女性差別のレトリックです。
「『こころ』はもうひとつよくわからんクラブ」というのをブログで立ち上げたら、けっこう盛り上がりそうな気がするのですが(p129)。―橋本治が『蓮と刀ー男はなぜ“男”を怖がるかー』(河出文庫、1986年)で見事に指摘しているように、漱石の『こころ』は、ずばり「ホモ小説」です。「漱石の『こころ』がわからない男たち」は、「内なるホモセクシュアリティ」を徹底的に抑圧している男性たちなのだと思います。


*「村上主義者」(上記の本で、村上さんが、「ハルキスト」に代えてこの呼称を提案しています)のジェンダーに関する保守性は、百田尚樹氏よりも手強いのかもしれません。ちなみに、上記の本によると、村上さんも学生時代は任侠映画に熱狂していたそうです。やれやれ。

白人支配からの解放戦争?

 石原慎太郎氏は、とかく太平洋戦争を「白人支配からの解放戦争」だったと主張しますが・・・


(前略)日本人がまたそれに乗って、東は東なんて言いだしたら、まんまと向こうの思うつぼですよ。東も西もないんだって、なぜ日本人が言えないんだ。それを、「いや、やはり東洋的な何とか・・・・・・」って。いま東洋という括弧で何かをくくった瞬間、何が起きるかっていったら、結局植民地主義者と植民地原住民の色分けだけでしょう。
 だから、アメリカでの禅の流行なんて、東洋の理解どころか、単なる文化的ニヒリズムにすぎないよね。インドの瞑想と同じことさ。向こうはもう腹の中で笑っているよ。金儲けなんだから、あんなもの。インドに瞑想なんかありゃしないよ(安部公房『死に急ぐ鯨たち』新潮文庫、1991年、pp.91-91)。


*コロンとして育った安部公房のいう「西洋/東洋」を、「白人/有色人種」と言い換えても同じことでしょう。