断酒会例会

 昨日、断酒会の例会で、「200くらいあったγーGTP(これでも通院必須)が59に下がった」という話をしたら、「私の最悪のときは1000を超えていた。いまは50いくつ」という人がいました。私なんぞ、アルコール依存症のまだまだ初期の段階で「底を打った」ケースだと思います。というより、私の場合、「アルコホリズム」ではなく「プレ・アルコホリズム」(予備軍)の段階だったのでしょう。どのみち、断酒は継続しますが。

完全断酒継続

 私の心筋症がアルコール性かどうかについては、循環器内科医は「その可能性はある」と言っているだけです。しかし、もしアルコール性なら、再飲酒すると症状が再発します。もしアルコール性でなくとも、「節酒」は必要です。「節酒」よりは「断酒」のほうがやさしいです。という訳で、完全断酒を続けます。

病院時間

 昨夏の入院以来、病院時間がからだにしみこんでしまい、夜9時前には寝て、朝6時前には起きています。早寝早起きで、健康的と言えば健康的です。断酒も、入院をきっかけに始めることになったしなあ。「せっかく」病気になったんだから、何かいいこともないとね。

オウム真理教と「悪の凡庸さ」

 オウム真理教事件被害者弁護団に言わせると、島田弘巳氏より中沢新一氏のほうが、はるかに事件に対する責任が重いそうです。島田氏は気づいていないようですが、中沢氏の言論活動には、ジョルジュ・バタイユの影響が強いです。
 オウム真理教事件後も中沢新一氏が犯した過ちは、松本智津夫死刑囚について、バタイユが言うような「聖なる怪物」というイメージを振りまいたことです。オウム真理教に関しては、ハンナ・アーレントがナチズムに関して言うような「悪の凡庸さ」をもっと強調しないといけないと私は思います。

語呂合わせ文化の罪

 いろいろな点で日頃は人格者である僧侶の教員が、非・僧侶の別の教員が大腸ガンで倒れ、開腹してもう手術不能とわかったとき、「自分で病気になったんだ。頑固だからガンになったんだ」と片付ける場面を目にして、呆然としたことがあります。おそらく新宗教に端を発する「語呂合わせによる心直し」(「マニュアル化された心直し」)の文化は、現代では既成仏教にまで浸透しているようです。
 私などは、こういう文化は「自分を裁き、他人を裁く」「小さな狭い善人」を生むだけで、なくしたほうがいいと思うのですが。